ただ、貴方の声が聞こえる……


 ふと、真夜中に目が覚める。
 暗い部屋の中、愛はぼんやりとした目を外に向けた。とは言っても、障子は締め切っているので外がどんな様子かはうかがえない。
 少し首を傾ければ、そこには政宗の寝顔がある。右目の包帯は未だ取れていないが、もう痛みは無いようだ。
 冷えないようにと愛を布団で包もうとする余裕はあるらしいが、代わりに皮衣からはだけた彼の腕が冷え切っている。
「……まだ、癒えきっていないのに」
 呆れながらも、その腕を布団の中に入れる。ついでに逞しい胸も肌蹴ていたので襟を整える。
 ――そこで愛は違和感にようやく気づいた。いつも冬場の政宗は己を抱きしめて眠るのに、今夜はそうではない。
 だから冷えて起きてしまったのか……自分はこんなにも、この男を求めているらしい。自嘲じみた笑みを漏らして、布団から這い出る。
 布団の外はとても寒い。正月を過ぎたとしても、春では無い。寝巻の上に黒貂(くろてん)の皮衣を羽織ると、その障子を開けてみる。
 月は無い。今日は朔の日だったようだ。暗い空、しかし雪は降り続く。
「……月もありませんもの。少しくらいは……」
 子供のような笑みを浮かべると、愛は皮衣を仮帯で縛って、そっと部屋を抜け出す。
 米沢城は静まり返っていた。見回りの者達すら、それを怠るほどの寒さであろう。自室まで誰にも見つからずに傘を取りに行く事も出来た。
 幼い頃は、良くこうして真夜中にこっそりと城を抜け出したものだ。今の自分にも、それを楽しむくらいの子供心は残っていたようだと、苦笑しながらも雪下駄を履く。
 政宗が半年かけて作らせたという、蝦夷の黒貂の皮衣はとても暖かい。防寒として他の毛皮も貼りあわせているようだが、暖かければそれで良い。
 それに、愛はこの奥州で生まれ育った。少しくらいの寒さには負けないのだ。
「ふふっ……本当に、誰もいない。困った方々ですこと」
 堂々と城から抜け出した愛は、楽しそうに笑った。こんな寒さでは密偵も外には出まい。
 昔は政宗と共に外を見回っていたが、幽閉から二年。久しぶりの外だ。
このまま逃げ出しても良いだろう。とは思っても、愛は傘の柄を握り締める。そんな事は出来ないし、したくない。
「死ぬ時は……殿も一緒ですもの」
 そう、ただの散歩だ……愛はそのまま、城から遠ざかる。
「……誰も、いないのね」
 当然だ、と思いながらも愛はサクサクと雪原を一人で歩く。傘を差しているので雪は直接降ってはこない。
「……寒い」
 しかし、どうしてか、とても寒い。まだ引き返す気も無いが、温もりが欲しくなってきた。
 昔も、そういう思いに駆られた事があった。それは、遠くに行き過ぎて寂しくなった時。
 愛は城とは別……東南の方へと向いた。そこにあるのは、自分の本当の家。
 帰りたいとは思わないが、確かな温もりがあった所。
 気がつくと、愛はその方へと歩いていた。雪は吹雪となって愛を叩く。
 それでも、歩き続ける。


「愛。なぁ、愛……!」
 政宗はその戸を叩く。
「いるんだろ! なぁ、返事してくれ!!」
 ……しかし、愛は返事をしなかった。
 あの日、政宗がつけた左肩の傷が、今頃になって疼いたからだ。
 痛くて、辛くて、苦しくて。
 忌々しい男が扉を叩いている。愛は扉を睨みつける。
 自分を閉じ込める戸。しかしそれは、男を守るための戸でもある。
 やろうとすれば、このままあの男ごと、戸を貫く事だって出来る。
 ……けれど、何故やらないのだろう。何故したくないのだろう。
 苦痛と疑問が心と頭をかき乱す。そして、その戸を叩く男の悲鳴じみた声……。
「ごめんな、愛……俺のせいで……俺のせいで!!」
 すすり泣く声が、やがて聞こえてきた。
 それは、羨ましいと思えた。今の自分は、泣きたくても、泣けないから。


 脳裏すら白くなる、吹雪。
 結局愛は、廃墟の中に避難するしかなかった。火をおこそうにも何も無い。うずくまるしかないのだ。
 吹雪が廃墟の扉を叩く。まるで、あの時の政宗の慟哭のようだった。
「……煩(うるさ)い」
 歯を軋ませて、呻く。無意識に、左肩に爪を食い込ませる。
「煩い煩い煩い……」
 こぼれる血など、構わず引っかく。つんとした血臭が辺りに漂って、ようやく肩の痛みに気づく。
「……煩い」
 呻きは止まらない。寝巻の襟に血を吸わせ、帯を締めなおす。だが痛みは引かない。


「……愛。起きてるか?」
 寒い日の夜でも、政宗は襖越しに愛の名を囁く。
「寒いだろ? お前は、本当は寒がりなんだから、布団くらいかけろよ」
 自分も寒いだろうにと、暖かい布団に包まっている愛はそう思う。やはり、返事は出来ない。
「なぁ……俺、ずっと、ずっと……お前を離さないからな。どこにも逃がしやしない。その分、お前を愛するから」
 胸が締め付けられる。思わず、そばにあった傘に手を触れてしまう。
 その元凶を、今度こそ八つ裂きにするために。
「I love you forever……ずっと、愛してるから。愛」
 政宗の声は、澄んでいた。
 どうしても、その性を押さえ切れなかったあの時の咆哮のように、澄んでいた。
 どちらも、本音である事は分かった。己ですら切なく思えるほどの、愛の形だと。


「……寒い」
 愛の唇が青くなり始めていた。あれから何時間経ったのか、分かりやしない。
 こんな所で足止めを食らうとは思っても見なかった。もうすぐ夜も明けてしまうだろう。早く帰ろう、と立ち上がる。
「きゃっ」
 しかし、立った拍子に下駄が滑る。無様に転んでしまうも、体は起こせる……。
「つぅ……」
 いや、出来なかった。足を捻ったらしく、地面に着くと激痛が走ってしまう。
「う……」
 そのまま、体を丸くする。もう、立てない……。


「愛。ようやく、会えた……」
 襖を開いた政宗は、満面の笑みを浮かべていた。人形のようにただ見つめる愛を抱きしめ、囁く。
「ごめんな……俺、愛してるから。こんな、俺でも……お前を愛する事は……出来るから」
 うわ言のように口にする政宗。ふと、その左目を左の肩に向ける。
 自分が抉った、傷に。
 もはや、それは生涯の痕になってしまうものだとは、愛も薬師から言われている。包帯を取ってみれば、実に醜い傷がそこにあった。
 あぁ、嫌われるだろう。あんなに愛してくれたのに――しかし今の愛にとって、それはどうでも良い事に成り下がっていた。
 ……袖に隠した匕首は、まだ出さない。
「……綺麗だ」
 しかし、政宗は予想外の事を言い放つ。愛は顔には出さなかったが、内心で何を言ってるんだと思ってしまう。
「まるで、雪の結晶みてぇだ」
 自分がつけた傷にそう言う政宗に愛は思わず、声を漏らした。
「……どこが、それと……」
「ほら、鏡で見るか? そんな感じだぜ」
 手鏡を探そうと、一度体を離す。夫の背を見て、愛は今だと、匕首の柄を握りなおす。
「Oh, これか」
 政宗が振り向こうとしたその瞬間、愛の腕が振られた。
 握り締めた匕首。それを政宗の背に……。


「……気づいたか?」
 ――何か、暖かいものが包んでいる。それが政宗の腕だと気づいた愛は、はっと我に帰る。
 居るはずが無いというのに、その温もりは確かなものである。
「……殿、どうして……」
「途中まで後を追ってたんだけどよ。吹雪で見失って……Shit! 今更家が恋しくなったんか?」
 そこはまだ廃墟の中だった。しかし政宗が持ってきたらしい、南蛮の灯篭のお陰で暖かく感じられた。
「Shit! 朝まで無理だな、これじゃあよ。散歩は小十郎の許可を取ってからにしろよ……」
「……ごめんなさい」
 政宗の胸の中で、愛はつぶやくしかなかった。その頼もしい胸を掻き毟りたくなったが、思ったよりも体力が消耗してしまったようで、上手く口も動かない。
 俯いていたので、気でも滅入ったのかと思ったらしい政宗は、愛を抱きなおしてから銀の髪を撫でる。
「……寒かっただろ」
 自分が着てきた、外出用の皮衣を愛の背にかけてやる。自分はどうなのかと顔を上げる愛だが、政宗は苦笑する。
「田村の方より高地だから、こっちの方が寒いに決まってるだろ? 俺はここで生まれ育ったんだぜ。このくらいは大した事ねぇよ」
「……でも」
「お前が風邪でも引いたら、また隔離されるぞ」
 冷えた唇を、政宗は奪う。何も言えなくなってしまったが、愛はその温もりに力が抜けてしまう。
 暖めるためか、ゆっくりとなぞられる。いつものような貪るような口付けとは、また違った。
 いつまでも、ずっとこうしていたいほどの優しい口付け。しかし、唇がずれる。
「ん……」
 眉をひそめ、政宗の唇がどこにあるのかを肌で感じる。すぐに知れたが。
「ひっかいたのか……?」
 愛の襟をずらした、政宗の声が低くなる。血に染まった左肩に、愛は苦笑を浮かべた。
「今頃、お気づきになって?」
「今、起こした時に気づいたんだ」
「……ひっかいて、何がいけないのです?」
「前に約束したはずだ」
 政宗は愛を睨むように見やる。
「覚えてるだろ」
「……はい」
 抵抗出来ない愛は、素直に頷いた。


「ふふっ……」
 愛は笑っていた。匕首を握っていた手は赤くなっていたが、肝心のそれは手の中にはない。
「くっ……愛……」
 政宗は不意を突かれて、背に刺された匕首を引き抜いた。かしゃんと、それは畳に落ちる。
 血まみれになったそれを、愛は笑みを湛えたまま拾い上げる。
「今度は、どこにします? その左目がよろしいかしら?」
「愛っ……お前……」
 流れる血を手で押さえ、政宗は呻く。しかし愛は笑ったままだ。
「そうですわ。左の肩にしましょう……同じように、綺麗な痕をつけてさし上げますわ。うふふ……とても、素敵な事ですわね」
「……愛」
 政宗はつぶやく。悲しそうに、悔やむように。それが気に入らなくて、愛は顔を歪ます。
「そんな顔をなさらないで……本当に、死にたいのかしらね。それは私の方なのに」
 流血で滑らないように、しっかりと匕首を握りしめ、愛は真下に下ろす。
 引き裂いたのは、自分の着物の帯。はらりと、着物も襦袢も畳の上に落ちる。
 白い裸体で、政宗の前に立つ。
「さぁ、いかがします? 私を殺して溜飲が下がらないのならば、存分に弄べばよろしいでしょう? けれど、今の私は貴方をいつ殺そうかと、それだけしか考えられませんわ。でも、安心なさって。私は今でも、貴方を愛しております」
 しゃがみこんで、政宗の顔を覗き込む。
「貴方がおっしゃる事は、何でもしますわ……父上様を殺した時のように」
 怒りだろう。そう思った愛だが、しかしそうではなかった。
 深い、悲しみだった。
「……愛。殺したければ、殺せ」
「……え」
 呻いたのは、愛だった。政宗の手が、匕首の手を握る。
「憎いなら、殺せ。それで……お前が俺を許してくれるのなら。でも……」
 動こうとはしない愛の頬を、血まみれの手でなぞる。
「……殺したくないんなら、お前もその身を傷つけようとすんな。お前に傷つけてもいいのは、俺だけだ」
 寒気のするほどの怒気に愛は思わず身を退いてしまう。しかし、すぐにその手が引かれる。
 匕首ごと、政宗は愛を抱きしめた。
「……お前は俺のものだ。勝手に俺の傍から、離れるな」
「……はい」
 血に塗れた背に手を回し、愛は頷く。匕首は既に、畳の上に落としていた。
 自分が一番望んでいた事を、政宗は叶えてくれなかった。しかし、何故かそれが嬉しかった。
 どうしてなのかは、分からない。愛と憎が正反対になってしまったのだろうか。
 それとも……?


「……私を傷つけていいのは、殿だけ」
 結局、あの日は政宗に抱かれる事なく、またしばらく会えない日が続いた。しかし、次に会えた時、政宗の手には扉の合鍵があった。『これで、いつでも会える』と、喜んでそう言った。
 どうして、こんな狂気を孕んだ女を愛してくれるのか。愛はその胸の中で、つぶやく。
「……でも、どうして殺さないの?」
「俺には、まだやる事があるからだ」
 政宗はきっぱりそう言うと、愛を抱いて立ち上がる。
「だから、もう少し待っててくれ。すぐに、終らせるから」
「殿……?」
 愛は首を傾げるも、政宗は柔らかく笑んだ。
「終ったら……な」
 小さく囁いた言葉を、愛は聞き逃してしまう。だが、何となく分かった。
「……はい」
 頷く愛を、政宗は大事そうに抱えると廃墟の外に出る。吹雪は嘘のように止んで、日は昇り始めていた。
「じゃ、帰るか。バレる前にな」
「……殿」
 緊張が解けてしまったせいで睡魔に襲われた愛は、眠たげな目で政宗を見上げる。
「……ごめんなさい」
「もういいから。でも今度は、俺を真夜中のdateに誘ってくれよ」
「……返事、しなくて」
 政宗は苦笑するが、しかし愛はぼんやりとつぶやくだけだ。
「ずっと……呼んでたのに。返事……したかった、けど……」
「……もう、過ぎた事だ」
 愛を胸に抱いたまま、政宗は立ち尽くす。
「ここにいるんだ……もう、返事は聞いてるぜ」
「……『梵』」
 元服した後も、変わらず呼び続けていたその呼び名。政宗はそれに気づいて、目を見張っていた。
「……愛?」
「私も……愛してる」
 振り絞った声は、彼に届いただろうか。
 だがそれを確認する前に、愛は目を閉じてしまった。


 ほんの一瞬の事だった。
 愛は精一杯微笑んだ後、疲労と安堵のせいで、ついに眠ってしまった。
 寝息も聞こえてくる……政宗は、白い溜息をついた。
「俺が、ちゃんと抱いていなかったからか……Sorry」
 頬に口付けようかと、政宗は髪をどかしてやる。
 しかし、それも憚られてしまった。透明な雫が一筋、つたっていたからだ。
「……Have a good dream」
 せめて良い夢を見れるよう、今日は抱きしめたまま執務でもしようか。政宗は城の方へと、雪原を歩き始める。
 途中、東の方へと向いてみる。彼女の、暖かい家があった所へと。
 この冷たい米沢は、寒い事に慣れていた彼女でさえ、耐え難かったのだろう。
 政宗はもう一度抱きなおすと、その反対方向へと向く。
「……愛。お前の家はこっちだ……俺が、暖めてやるからな」
 諭すように囁く。返事は期待していないが、代わりに己がしがみ付くよう抱きしめた。



 ……何も聞こえない。
 でも、その温もりさえあれば良いから……。



 <了>



▼後書
 シリアスにバイオレンスでした。ロマンスはどこへやら。(爆)


2006/10/04
2009/12/16…サイトリニューアルにより、加筆修正。

2014/07/13:
 サイトリニューアルにより改修
 愛さん家出未遂話でした。
 この頃は痛々しいなぁなんて思ってたようですが、やっぱり数年後にはこれを越えるような話が以下略。
 ……そうだなぁ。うちの政愛は、正に『殺し愛』だったのかもしれんな。

 新設定版ではどうなるかなぁ……多分こんな風にはならんはずですがね。

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