いつの間に……ここまでたどり着けたんだな。 いつも通りの時間に、喜多は廊下を歩く。 喜多の一日は早い。朝餉の準備の監督に、掃除洗濯までこなす彼女は、それらを済ませると必ず向かう部屋がある。 伊達政宗の寝所、または愛の部屋である。 二人がどちらの部屋で寝るのかは、その日によってだ。これは政宗が前日に声を掛けてくれるだけあって迷いはしないが、素直に起きるかどうかもその日次第だ。 「政宗様。お早うございます」 今日は政宗の部屋である。襖の外で声をかけるのもまた日課だから、起きていれば返事をしてくれる。 しかし声は上がるも、返事で無い場合がある……ただしそれは寝ている場合だけには限らない。 『愛……も少し、頑張れねぇか?』 『そんなっ……もぅ、ゆるして……』 「……最近は調子良いのね」 しかし、喜多はそれでも良いと思っていた。 愛の体の調子が悪かったら、あんな事を朝までやるはずが無いからだ。 「これで、御子でもなせれば良いけれど……」 そう、後は御子である。喜多はその場で正座しながら溜息を漏らす。 「でも、あまり期待をし過ぎても、姫様のお体が良くないとね。さて、朝餉の時間をずらしに行かないと……」 「……どうして時間をずらすのですか?」 と、喜多が開き直って立ち上がった時である。背後から低い声が聞こえてきたので振り向けば、義弟の片倉小十郎が顔を引き攣らせている。 「あら……どうしてここに?」 「姉上、きっちり起こしてくれないと困りますぞ! 執務がどんどん遅れるではございませんか!」 「そう言われてもね……」 ちらりと寝所を見やる。それに察した小十郎は、困った顔の義姉を押しのけて、襖の前に仁王立ちになって叫ぶ。 「失礼しますぞ!」 そして遠慮無く豪快に襖をこじ開ける。 「My god! 入ってくるなよ!!」 襖も壊れんばかりの物音に驚いたのか、声を荒げながらも、政宗は慌てて布団を引き寄せる。 もちろんその胸には愛を抱いているだろうが、布団で隠される。小十郎のお陰で理性と羞恥は取り戻したようだ。 が、幼い頃から傅役として付き合っている小十郎は、それで許すはずも無ければ、動揺すらもしない。 「政宗様! いい加減になさいませ!」 「テメェもだ! こんな時に入ってくんじゃねぇよ!」 政宗もようやく怒鳴り返す頃になれば、さすがに大声を聞きつけた者達が、何かあったのかと集まり始める。 「どうしたんスか小十郎様?」 「いや、何でもない……」 これまでは見せられんと小十郎は襖を閉めようとしたが、喜多がその肩を叩く。 「景綱、ちょっと」 「如何なさいましたか……?」 しぃ、と幼なげに指を唇を当てる姉に小十郎は首を傾げるも、すぐにその意図に気づいて身を引いてやる。 そして入れ替わるように、喜多はこっそりと部屋へと忍びこむ……奥州の主の寝所は洒落た衝立も紗幕もある宮廷風だ。締め直されたお陰もあって、喜多一人が入っても中の二人は気づきもしなかった。 未だ薄暗いその中で、政宗は嘆息していた。 「Shit……何で来るんだよ」 「……本気で仰ってますの?」 そっと覗きこめば、政宗はまだ身を起こしたばかりだ。愛の方はその胸の中で抱かれているようだが、まだ声も眠気で危うい。 「もうこんな時間ですのに……」 「お前は日中寝てるじゃねぇか」 「誰かのお陰で徹夜になる事もありますもの……それに私はこの国の主ではありませんし」 「Oh……そんな口叩いていいんか? 愛……」 政宗は顔を引きつらせながら、愛を組み敷く。 「Limitまでイかせてやるぞ?」 「り、りみ……? ひゃっ!」 愛は政宗にしがみつくよう、肩をつかむ。 その初々しい反応を楽しみながら、政宗はもうしばらく楽しもう……とした所で、その視線に気がついた。 「……喜多、だよな?」 「私の事は構わなくても良いけれど、姫様のお体は労って差し上げなさい」 「……お、All right……もう、起きるから」 寝所にまで忍び込んだが、さすがに明るい声の乳母まで怒れずに、政宗はようやく布団から這い出たのだった。 「一体、どこにあんな体力が……」 「それを考えたって仕方ねぇだろ」 小十郎の呻きに、留守政景も溜息をつく。今日もまた、会議は当主不在で進められる。 「まだ若いんだしよ……それより、あの姫も意外と」 「もうやめろ。想像させるな」 と、言ったのは猫御前である。体つきこそは男のようだが、れっきとした女で、政宗の側室である。その反応に、政景は苦笑する。 「やっぱり女だな、お前も」 「う、うるさい!」 「とにかく、政宗様には国の主としての自覚を持ってもらわなくてはなるまい。いくら和子を授かるには必要な事とはいえ、やり過ぎも困る」 「いいじゃん景綱さん、政景様の言う通りだって。だってあの田村の後継よりは、政宗様の和子の方が良いじゃん!」 そう言ったのは小十郎よりも若く軽薄な男だ。政宗の家督継承時に代替わりし、重役に就いた各家の御曹司らは馬廻りの荒くれ共にも劣らぬほど血気盛んである。その中でもこの屋代景頼は、その荒くれ共すらも疎んじる汚れ仕事を全て引き受けた奉行だ。少しばかり非常識な事でも全く動じない。 「景頼殿の言う通りです。そもそも田村はかつて政宗様に弓引いた家であります。愛姫様個人はともかく、家臣らは未だに不穏な動きをされているのですよ」 景頼よりも生真面目そうに見えるが、中身は良い勝負の原田宗時もそれに同意する。政宗の小姓であり、今は軍務総取締役として各地の軍事拠点も自ら査察する彼である。若いながらもその言葉は誰よりも重みがあるものだ。 「それほど御母堂(ごみどう)の相馬を捨て置けぬのだ。小競り合いはあれ、頼り甲斐がある方に人は傾くものだぞ宗時殿」 しかしそれに反する事を言えるのも重役である。戦時では騎馬隊長として荒くれ共らを率いる後藤信康は、三十路の貫禄を見せつけながら穏やかに諭す。だがかつて殺し合い寸前の喧嘩をも繰り広げた宗時が、それに対して同じ応答が出来る訳がない。 「今度は田村と通じたのですか……貴方の節操の無さは死ななければ分からないようですね」 「おい、それで切れるとかどれだけ信用無いんだよ……まぁお前もまた打ちのめさなきゃ分からないみたいだがな」 「いやいや二人とも。このご時世、裏切りは良くある事だってばー!」 本当に殴りかからんばかりの宗時に対して、やれやれと呆れながらも応戦しようとする信康。そして適当な事を言って囃し立てる景頼……伊達の問題は当主だけでないのだと、小十郎はもはや怒る気すらも出ない。 「てめぇら……今は何の会議だと思っているんだ?」 「何って、梵天の寝坊問題だったら喜多がちゃんと起こせば良いだろが」 どちらかと言えば若手と喧嘩を楽しみたい政景は、勃発した口論を眺めながら肩をすくめてみせる。 「参考程度に言えば、あの兄貴は御前と同衾した翌日にはちょいとばかし寝坊する方だったらしいぜ」 「しかし輝宗様は良く執務に励んでいたお方でありましたぞ……それと比べたら政宗様は」 「それもそうなんだがよ、俺としては別の大問題を気にかけた方が良いと思うぜ」 「別の……?」 「……うん、そうだよ小十郎。愛姉……本当に大丈夫なんか?」 叔父の言いたい事を悟ったらしい伊達成実は、皆に問いかけるようにつぶやく。 ……だがその問いには、誰もが答えられなかった。 「話って何だ?」 ようやく執務をやり始めた主に、小十郎は尋ねる。 政宗の機嫌はすこぶる良いらしく、素直にてきぱきと執務をこなしている。それを崩すのはどうだろうかと思うのだが、聞かずにはいられなかった。 「……愛姫様の事で、少しだけ気になりまして」 「気になる? Oh……お前にしちゃ珍しいじゃねぇか」 「……毎晩、お抱きになってるのですか?」 「ぶっ!」 小十郎の問いに、政宗は思わず吹いた。茶を含んでいたら大変な事になっていただろうという盛大さだ。 ……怒るかと思っていたが、予想外の反応だ。小十郎の方が、二の次を出し損ねた。 「な、何言い出すんだよテメェ。吹いちまったじゃねぇかよ」 「い、一応……真剣なお話ですので、どうか、真面目に答えてください」 部屋には二人だけ。政宗はやや唖然としながらも、ぼそりと答えた。 「毎晩……とまではいかねぇよ。あいつの具合によってだ。俺だって、少しは気ぃ使ってんだぞ」 「本当でございますか?」 「小十郎……俺を何だと思ってんだよ。まぁ、撫でたり揉んだりするのは毎晩やってるけどな。あぁ、月の役の時は猫の部屋にいるぞ」 「……はぁ」 「おい……人がせっかく答えてやったのに溜息つくなよ……」 さすがに気は使ってるようだと、小十郎は安堵するも、政宗は苛立ちを混ぜて言う。 「俺を何だと思ってんだ……今朝の事、まだ怒ってるんか?」 「いえ……気になっただけです」 「Really? お前が愛の事を気になるって……」 「珍しい、と?」 つい怒りを解くまで驚いた政宗。そう思われるのも仕方が無いと、小十郎は主の顔を窺ってみる。 政宗は驚きながらも、やはり不思議そうに小十郎を見ている。 そして、すぐに真剣な顔に変えて問う。 「……お前、悪いものでも、食ったのか?」 「……何でそうなるんだよ」 思わず素が出てしまう小十郎に、政宗は苦くつぶやく。 「お前、愛なんか、どうなったって良いと思ってそうだからよ」 「そ、そこまで私は……」 主の思わぬ発言に、小十郎はつい声を震わせた。 確かに己が愛にしてきた事は、情を感じさせぬものだったに違いない。政宗が反対する中でも、事実と道理でねじ伏せて強行した事すらある。 「It's a joke.」 だが狼狽する小十郎に、政宗はそう言った。 「冗談だ。ほら。これ、綱元の所に持ってってくれよ」 紙束を差し出す政宗の顔は、どこか安堵したものであった。そんな主の顔を見て、小十郎は動揺を必死に抑えた。 「愛姉。梵兄と、上手くやってるのか?」 いかにもさりげなく、成実は聞いてみる。 政宗の寝所の縁側で雀に米粒を撒いていた愛は、可愛らしく小首を傾げた。 「上手くですって? 上手くやらなければ、どちらかが死んでいますわよ」 「えっと、うーん……」 そういう返事を期待していた訳ではなかった成実は、困ったように唸る。愛は苦笑しながら言った。 「私達は政のために婚儀をしましたのよ。例え正室とて、気に入って貰えなければ、何らかの理由をつけて処刑されてしまうものですわ」 「それはやり過ぎじゃねぇか?」 「そうで無くても、嫁はその実家が裏切った時の人質と見なされるのが当然の事。殿の方がおかしいのですわ」 愛はせせ笑う。だが成実はその隣で顔をしかめる。 「……愛姉は、そう思ってんか?」 「常識ですもの。つまりはそれほど、私は殿に愛されているようですわね」 膝に乗って餌を求める雀に、愛は目を向ける。 その顔は実に穏やかで、優しいものだったが、成実は別の顔も垣間見ていた。 何か、そう演じなければならないかのように、必死な表情だ。 「未だに子供のように、私に甘えてくる困ったお方……争い事になれば、私の事などそっちのけにするくせに。それでも、昔よりは落ち着いてきましたのよ。ようやく、国の主としての心構えが身につきましたのね……」 「……愛姉。それ、本心で言ってるのか?」 言ってはならない事だろう。しかし、成実は言った。 「マシになった、って言うのは嘘じゃねぇと思うけど……今でも、愛姉を……」 「時。貴方こそ何が言いたいのかしら?」 愛は成実に目を向ける。 その目は五月にしては、冷え冷えとしたものだ。 成実はゴクリと唾を飲む。愛は夫すら刺したほど、容赦はしない女だ。さらには、それに実力すら伴う。 いつまで経っても自分が強くなったと思えないのは、そのせいだ。いつまで経っても、己は愛に勝てないから。 「はっきり仰らないと、分かりませんわ」 分かってるくせに。 成実はそう言おうとしてしまったが、何とか抑える。 愛は頭も良い。既に言いたい事は分かっているはずだ。 それでも、成実の口から言わせたいようだ……愛は寄ってきた雀へと再び目を向ける。 その表情には、もう険が抜けていた。 「口下手なのは知ってますわ。けれど、『その事』くらいは、ちゃんと言えるでしょう?」 しかしそう言われても、成実はとうとう言えなかった。 さすがに、成実も男である。愛がどんな事をされているのかは大体分かっているつもりだ。 しかし、その間で何を思っているのかは、分からない。実践する気にもなれないが。 女って、分からない。成実がとぼとぼと廊下を歩いていると、同じような足取りの小十郎を見つけた。 「小十郎。どうしたんだ?」 「いえ……」 どうやら、彼は政宗に聞いたらしい。そんな雰囲気だったので、あえて問い質す事はしないでおこうと、そう思った所で、小十郎はズバリと言ってくる。 「愛姫様の御加減は?」 「な、何で分かるんだよ」 「……香を焚くようなご趣味を、貴方がお持ちでは無いでしょう?」 あぁ、香か。と、成実は自分の着物の臭いを嗅ぐ。 良い香りだ。さすがに、どんな香なのかは小十郎に聞いても分からないだろうと、成実は苦笑する。 「別に、愛姉は心配するほどでも無かったよ」 「ならば良いのですが」 小十郎は小さく息を吐く。やはり心配していたらしい。 しかし、あの小十郎が愛の事を心配するのも珍しい事だ。そう思ってしまった成実だが、口には出さない。出した所で雰囲気を悪くするだけだと思えるくらいは賢明だからだ。 「……そういや、幸兄の決闘状、最近来てねぇな」 とりあえず話題を変えようと、成実はそんな事を口にする。真田幸村は何度か会った事がある。本当は成実の方が二つも上なのだが。 「そうですな……昨年の奇襲以来、見舞いの書状しか来ていない」 小十郎はようやく苦笑してみせる。彼の持つ紙の束に、幸村が遠慮しているのもあるだろう。 政宗は自分と違って、一国の主だと。 「それでも、まだ良いものかもしれん。政宗様が真に友と呼べるのは、奴くらいだろうからな」 「友か……」 成実ならば、伊達家の家臣内で親しくしている者達は皆友人として付き合える。しかし政宗は主でしか付き合えないのだ。 そんな彼の前に現れた幸村は、僥倖としか言えないだろう。彼と出会った頃、政宗はまだ後継でしかなかった。あの頃は、お互い家の事など構わずに、好きなように決闘をしていたのだが……。 『あいつも、色々大変らしいな。兄が敵に着いちまってるんだとよ。まぁ、俺の方が酷いだろうけどよ』 と、そんな事を漏らしたのは、あの夏の決闘から帰還した時である。 目まぐるしく変わる情勢の中、それでもお互いが敵として、あの冬まで対峙しなかったのは、本当に奇跡だ。 「俺も、そんな友……一人くらいは欲しいな」 ぼそりと言った一言に、小十郎は苦笑を深める。 「それは良い事……なのかどうかは分かりませぬが、悪くは無いでしょうな」 「だよな」 成実も苦笑し返す。と、そんな時であった。 「小十郎様! 成実様!」 黒の脚絆を身につけた者――伊達家お抱えの忍衆たる黒脛巾(くろはばき)組の者が、塀の方から二人の姿を認めるや絶叫する。無礼ではあるが、火急の事ならば許されるのが黒脛巾組だ。それは彼らを積極的に使った輝宗も認めた特例なのだ。 「どうした?」 二人の顔は厳しいものになる。その者は、顔を青くさせながら叫んだ。 「ま、政宗様がっ……!」 「ただの掠り傷ですわ」 「……お前には、そう見えるんだな」 政宗は呆れながら、着物を脱ぐ。 左肩は真っ赤である。唖然と見る小十郎を見つけて、政宗は苦く笑って見せた。 「逢瀬に行こうとしたら、これだぜ」 「げ、下手人はっ……!」 「さぁな。逃げちまったよ。Hit and awayってやつだ……ててっ!!」 布団に寝かせられた政宗の銃創に、愛は手を清めから、躊躇いも無く指を突っ込む。 ぽたん、と。引き抜いた血まみれの銃弾を畳の上に転がして、しげしげと眺める。 「……まぁ。私の銃弾と良く似ているものですわ。少々違いますけれど」 「そうか。お前じゃねぇんだな」 素直な感想を吐き出す政宗は、慌ててやって来た薬師の血止めを受ける。 「幽玄のお得意様じゃねぇけど、良く似てるか……西国の方に南蛮野郎の国があるんだよな? そいつの手下がやったってか?」 「そんな遠国の者が、ここに来る理由などありませぬぞ」 「わかんねぇぞ。南蛮野郎の考える事なんかよ……」 「ともかく、幽玄に聞いて見るのが一番ですわね。次の手入れの時に一緒に見てもらいましょう」 愛は桶の中に、銃弾を投げ込む。 しかしそれは一ヶ月後に判明する事であった。その下手人は西国の大名の一人、長曾我部元親の内偵であり、うっかり政宗と出くわした時に護身用の銃を撃ってしまったのだ。 彼らが知るのは、その銃弾を伊達家にも馴染み深い武器商人の幽玄の実妹に見せた時である。だがそれもまた、この時の彼らは夢にも思わぬ事であった。 それ故か、傷は一ヶ月もすれば治る程度のものであった。処置も早かった事もある。 「お前ら、もう少し防衛をきちっとやれよ」 「お前もきちっとしろよ、梵天」 緊急会議の席で、政景は甥子をジロリと睨みつける。 「お前はやっぱり兄貴の息子だ。ボケっとするなよ」 「仕方ねぇだろ叔父上。あんな至近距離で撃たれたんだぞ」 布で固定されて動く事もままならない左肩を擦りながら、政宗が苦く言う。 代わりに、隣に座る愛はとても嬉しそうだ。 「ふふ……私と同じですわね」 「……そうだな」 かつての《粛清》――そのように愛の左肩に癒えぬ傷をつけた事もある政宗だ。今回は愛が銃弾を取り除くために抉りだしたようなものであるから、立場は逆とも言えよう。何かの啓示なのかどうかは分からないが、それを楽しそうに語る二人の姿に、家臣達は感慨深く見守っている。 小十郎もその一人であった。ようやく、過去を過去だと思えるようになったようだと、僅かながら喜ばしいものを覚える。 それでも、ほんの僅かな陰が二人にあるのを見切るのも彼であった。 気になれば気になるほど、行動したくなる。 その夜、申し訳ないとは思いつつも、小十郎は政宗の部屋にそっと近づいた。 あの《粛清》と同じ事が起こるかもしれない。その危惧に胸を締め付けられて眠れそうにないのだ。 「おい」 しかし、さらに近づこうとした所で、呼び止められる。 見やれば、背後に居たのは成実であった。 「な、成実様……」 「あんまり近づいたらバレるぞ。愛姉は鋭いんだからよ」 それは知ってるが、感覚の鋭い成実が警戒するほどのものだからと、それ以上は断念する。 「これはあの方々と我々の信頼関係を崩しかねないものであります。小十郎、軽率な真似はなるたけ、控えなさい」 「……何故貴方が」 成実と一緒に、何故か鬼庭綱元もいる。彼も彼なりに心配してるようだが、何も《片腕》が勢ぞろいする必要があるまいに。だが揃ってしまったのは仕方ないので、そっと耳を澄ます。 ……二人は、縁側で月を眺めていた。 今宵は三日月である。 「月見も、たまには良いですわね」 「そうだな」 政宗は右腕で愛を胸に抱く。左肩の事もあってか、愛は寄りかかろうとはしなかった。 「お加減は?」 「さぁな。感覚がねぇ」 「感覚が?」 愛は面白い事を聞いたかのように、政宗の腕から抜け出すと、その左肩にそっと触れる。 政宗の口元が、小さく引きつる。 それに気づいた愛が、首を傾げて尋ねた。 「……感覚は無いはずでは?」 「触れば痛いに決まってるだろ」 「そうですわね。触れれば、痛いでしょうね」 政宗の肩を触れた手で、己の左肩をなぞる。 声はまだ朗らかなものであったが、顔は不満そうなものである。 「……けれど、二年もたてば、分からなくなってしまうものですわね。思い出さない限りは」 「……」 政宗は何も言えない。『そうだな』と肯定すれば悲しそうな顔をするだろうし、『そんなの思い出すな』と否定すれば、怒るかもしれない。 それゆえか、何も言わない政宗に、愛は寂しそうな顔をして見せた。 「……誰も、何も言ってくれませんのね。肝心の事には、触れようともしないで……」 「……愛、俺は……」 踏み込もうと一歩出した所で、愛はその唇をふさいだ。 己の唇をもって。 触れるだけのものだったが、静かな夜の縁側では、永遠のようにも感じられる長さであった。 たまらず、抱きしめる。より深く求めようと、右手だけで抱き寄せる。愛は接吻だけで、何もしない。ただ従うのみだ。 「……俺は、お前のためなら死んでも良いって、思ってた。今すぐにでも」 愛に阻まれてしまったその言葉を、ようやく吐き出す。 ずっと、喉に引っかかっていた、本心を。 「今でも、俺の事を憎んでるよな?」 「……えぇ。今すぐにでも殺したいくらいに」 愛は頷く。 だが、それと同時に、明確に否定したのだ。 「……愛」 でも、殺せない、と。愛は顔を引きつらせて、続ける。 「……貴方は一国の主ですのよ。何を、そのような世迷言を」 「お前、本当にそんな事を……」 「政宗様っ!」 叫んだのは、愛である。 それに、政宗は言葉を封じられてしまった。 言えるはずがない、その名を呼ばれて。 「私はっ……私は、『政宗』という名を、父上様があの時、憎憎しげに繰り返していたから……だから、私が殿の名前を呼んだら、父上様に怒られると、そんな気がして……怖くなって……」 今でも夢に出てくるかもしれないと、怖いのだろう。愛はしゃくり上げて言う。 がくがくと震える体は、より一層頼り無さそうに小さく見える。 「今でも、怖くて……でも、貴方を殺せなくて、私っ……」 「もう言うな」 何を言おうとしてるのか、分からなくなってきているようだ。政宗はその背を撫でながら、囁く。 だが、それでも愛は言った。 「……私……貴方と共に、『いきたい』のです」 どっちの、『いきたい』か。政宗は眉根を寄せるも、愛は涙を浮かべながら、言った。 誰にも聞かれぬように、耳元で、そっと。 「……貴方と共に、ずっと」 「……そうか」 ずっと、『生きたい』。 政宗の本心を知ってもなお、隠し続けてきたのだろうか。それとも、それを己が言うべきでないと思っての事か。 そんな事は、しかし今の政宗にはどうでも良かった。 許してはくれないが、それでも共に生きようとしてくれるのだから。 「……内緒ですわよ」 胸に顔を埋めて、愛は囁く。 「……あぁ」 これは、誰にも知らなくて良い事だ。 抉るだけ抉ってきて、ようやく互いの本心にたどり着けた事など、お互いが知れば、それで良い。 「……綺麗だ」 愛の襟をずらして、その傷を改めて見る。 いや、直視したのは初めてかもしれない。いつもは見ていたにせよ、瞬きの間だっただろう。そう思えるくらい、記憶のものと全く違うものであった。 そうつぶやいて直視した政宗は、後悔する。それは綺麗、とはお世辞にも言い難い傷だった。 醜く残ってしまった傷口は、既に乾いてしまってはいるのだが、爛れよりも酷い。 「……本当に?」 愛は、絶妙な時にそう聞いてくる。政宗は小さく息を整えて、頷く。 「あぁ。だから、ずっと大事にするからな」 それだけは嘘ではない。政宗は力強く、そう言った。 この傷は、自分だけでもそう見なくてはならない。それでも、雪の結晶のように綺麗だと。 「……嬉しいですわ、殿」 「『政宗』にしろ。俺に身を任せていれば、怖くはねぇよ」 微笑して囁く政宗。愛は少し戸惑った風を見せるも、誰にも聞こえぬように、小さく言った。 「……政宗、様」 「Good.(それでいい)」 そのまま片腕で愛を抱き上げて、政宗は寝所へと引っ込む。 これ以上に無い充足感がこみ上げるも、しかしその後のどうしようも無い不安すらも浮かぶ。 ほんの少し前進した。けれど、結局その程度でしかない事は、互いに分かっている。 いつか、それで今度こそ亀裂が入ってしまうかもしれない。その時が、音も無く迫ってくる事も。 「……ちょっとは、進んだのか?あれ」 「さぁ……」 成実の問いに、小十郎は首を傾げざる負えない。 所々、肝心な事が聞けなかった気がする。しかしそれを主に聞く訳にもいかないだろう。 「……ちょっとは、進みましたよ」 代わりに、綱元が答える。 「補強程度にしかならないでしょうけれど、今はあれで良いのかと」 「そうですか……」 あまり女の事は良く分からない。どうやら、知らない所でこの義兄は経験を積んでいるのは分かってしまったが。 それでも、今は良いのだろう。今宵はこれで退散しようと、三人はそっとその場を後にする。 「……今は、か」 納得いかないように、成実がつぶやく。 「……だったら、この後、どうなっちまうんだろうな」 恐るべき予感を起こさせるようなその言葉に、二人は黙り込む。 そう、言いたくも無かった。 政宗達が思うように、これで済むような問題では無い。 未だ最上との確執も解決出来ぬ今、田村との関係も少しずつ綻び始めている。 全ては和子が出来るまでだ。それまで、二人が手を取り合えるままで居られるか……。 そんな綱渡りの関係が、これから何年続くのか。闇の中、僅かな灯りをようやく得た二人には、極めて困難な荊道である。 それだけは、小十郎達だけでなく、若い成実も予見出来る事であった。 <了> ▼後書 物凄い久しぶり過ぎてすいません!!でも、コレ書いてる時点では、まだアンソロ原稿終ってない んですよね。(爆) えー。三連作も、これで終わりです。これについての詳細は日誌をご覧下さい。 ふう。R18指定みたいな感じにしようと思ったのですが、今回も結局玉砕。(汗) ちょっと結論急いじゃったかな・・・いや、でもこれから盛りだくさんだしな、という訳でこんな 風にしてみました。むー・・・大丈夫か?(汗)これについても日誌にて注釈を。 これにて、ようやく幸愛話に手がつけられそうです。ふう。長かった。 とは言っても、『東西』を進めてからですな・・・。(汗) 2007/06/09 ※2009/12/16…サイトリニューアルにより、加筆修正。 2014/07/13:サイトリニューアルにより改修 政宗欠点シリーズ第三弾でした。アレなものから始まったのにも関わらずこの終わり方。 ある意味で私の中での政愛の結論的な話でもありましたが、まぁそれも昔の話ですかね。 改修後には後で出てきた重臣組も出してみたりと、やっと会議らしくなってきた……かも?重臣らについてはまた別のところで注釈します。 この続きというか決着については東西大戦の方でやっていたのですが、改修次第ではもうちょい違ったものになるかもしんないなぁ。 何にせよ、新設定の方ではもっと穏やかになる予定です。ってかなってくれ。 |
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