お前の大事なものって、何だ? 「かっ、景綱様……」 「どうした? そんなに引きつった顔をして……」 別にそこまで驚かなくてもと思ってしまうのだが、ようやく自宅に帰ってきた自分が苛立つ権利など、ありはしない。 片倉小十郎は縁側で座り込んでしまった妻の隣に腰を落ち着かせた。引きつる妻と厳しい夫という組み合わせは、なかなか合いそうで合わない。 「申し訳、ございません……」 「いきなり来たのだから、仕方無いだろ。体に大事は無いか?」 「はい……」 引っ込み思案な妻の蔦は、ようやく姿勢を正して正座する。 縮こまって見えるその様は、あの愛姫のような上品さよりも、何だか可愛らしさすら窺えるものだ。苦笑を浮かべながら、その膝に寝そべる。 「か、景っ……」 「膝枕だ。悪いな」 屋敷に戻ったのだから、このくらいは許されるだろう。柔らかい手で撫でられて、小十郎は目を閉じる。 城から少し離れた所にある屋敷に帰るのは、本当に久しぶりである。たまに愛に呼ばれて香やら花やらの相手をさせられる蔦と城内で再開する事は良くあるが、こうして屋敷でゆっくりとした時間を過ごす時間はろくに取れない。 ちらりと目を開けて見てみれば、実家にいる片倉の兄から株分けしてもらった桜。いつの間にやら見事に咲き誇っている……それを見て、ようやく小十郎は一息ついた。 「今夜はここに泊まる。良いな?」 「は、はいっ……」 蔦は何だか頬を赤らめて、意気込んでいる。夜の勤めを頑張るつもりらしい。そんな事を他人事のように笑いながら、その髪を一房手に取る。 「そんなに意気込むな。俺が大変だ」 「あ、も、申し訳……」 「もう良い」 そんな妻の頬に手を伸ばす。猫のように顎を撫でてやれば、気持ち良さそうな顔をする。 しかし華奢な手で捕まえられ、頬に持っていく。愛おしそうに頬ずりした蔦の仕草に、小十郎は厳しい顔を存分に緩ませる。 二人が祝言を挙げたのは、昨年の事。主の伊達政宗も友のように祝福し、義姉の喜多は涙ぐんでくれたほどだ。やはり嫁を持つのは良い事だと、ようやく感じてしまった小十郎も、今や二十七である。 だからこそ、小十郎はそんな嫁に申し訳なく思ってしまう――未だに子が出来ないのは、妻のせいでなく、激務に明け暮れる自分のせいだ。『少しは休め』と主君にも言われているのに、時間があるならとつい励んでしまうのだ。 そんな新妻もずっと寂しく思っていただろう。戦前にしか帰ってこないから、先程はまたそれかと驚かれてしまったのかもしれない。 今宵はちゃんと、慰めなくてはならない。安堵している顔の蔦を見ながら、小十郎は決心したのだった。 ……それから、約四ヵ月後。 「真にめでたき事にございます」 「は?」 季節は夏。蝉も忙しなく鳴く米沢城内で、小十郎は目を瞬かせる。 この間来たばかりの長曾我部の世話をしていた妻の容態がおかしいと。その長曾我部夫妻の厚意に甘えて薬師に見てもらった所、薬師は小十郎に対し、満面の笑みで頭を下げたのだ。 「奥方様はご懐妊であらせられます」 「……ほ、本当なのか?」 小十郎は傍で顔を赤らめて布団を被ってしまう妻を見やって、顔を引きつらす。 落ち着くよりも、まずやらなければならない事が先に思い浮かんだ……その部屋から薬師を引っ張り出すと、鋭い声音をさらに潜めて囁く。 「こ、この事は……誰にも言うな。良いな?」 「え? し、しかし……」 重臣の子が出来たというのに、それは無いだろう。そう言いたげな薬師に、しかし小十郎は答える。 「政宗様には、未だ姫すらも出来てねぇんだぞ。臣のみが慶事に恵まれてどうするんだ」 「は、はぁ……」 何となく察したのか、薬師は不承ながら頷く。 そうだ。腹の子が男子であったら、あの主には申し訳ないどころでは済まないのだ。元傅役の小十郎だからこそ、そう思うのだ。 これはえらい事になった――しかしそう思いつつも、出来たものは仕方がない。小十郎は何食わぬ顔を取り繕いながら、再び妻の下に戻る。 「……景綱様」 先程の会話を聞いていたのか、蔦は怯えている。出来るだけ笑顔で接しようとしたのだが、不器用な小十郎にはやはり無理であった。 「……案じなくて良い。今は体を大事にしろ」 「……はい」 震える手が、小十郎の手を握る。 男子だったらどうするつもりなのか――そう聞きたがっているようだが、今の小十郎には何も言えなかった。 「やっぱ、そうか」 次の朝、小十郎は詫びを入れるため、長曾我部元親の部屋に訪れていた。 既に政宗が指示していたのか、面紗に小袖姿の猫御前も部屋に控えていた。しかし政宗の側室である彼女にも、この事を聞かせる訳にはいかない。本名を吉乃(よしの)という猫もまた、その苦労が実を結んでいないのだ。 何とか言い訳をして席を外して貰ってから、小十郎は多分察しているだろう夫婦に真実を打ち明けた。 「まぁ、おめでとさん、だな。子供は良いぜぇ。何人居たってな」 「そうだよなぁ。父親がもっとしっかりすりゃ、アタシも万々歳なんだけど」 「……」 涼しい顔でそう言いのける菜々。心なしか、元親の顔は悲しげなものになっている。 この二人がこういう間柄なのは、少し前の『戦』で嫌というほど知ってしまっている。なので小十郎はそれほど構わずに声をひそめた。 「……お二人とも、そこで頼みがあるのですが」 「何だよ?」 「この事は、誰の耳にも触れぬようになさってください。特に、政宗様には」 「おいおい。普通、アイツに言うべきだろ?」 元親は当然の疑問とばかりに首を傾げる。だが、小十郎は顔をしかめて答える。 「あの政宗様にこそ、和子が授かれば良いものの……この小十郎が先に和子に恵まれては……」 「お前な、ちょっと考え過ぎだぞ」 何を言い出すんだと元親は真顔で言うものの、菜々はそんな夫に怒鳴りつける。 「何言ってんだ! てめぇ、家臣は主に対して、こういう風に思うのが普通なんだぞ!」 「……もう少し、声をひそめてくれるとありがたいのだが?」 理解をしてくれるのが妻の方であるから、尚の事複雑である。しまったと菜々は慌てて声を顰めた。 「あ、悪い。いやまぁ、そう思うのも理解出来なくもないし、そもそも他国のアタシ達が首を突っ込む訳にはいかねぇ問題だけどよ。どうにかならねぇのか?」 「それは……」 「とりあえず、あの政宗に聞けよ。それからでも遅くはねぇだろ?」 「……しかし、あの方ならば……」 小十郎は苦くつぶやく。 あの政宗ならば、絶対間引きなど許してくれないはずだ――そう考えながら、小十郎と同じような顔のまま見送った夫婦の部屋を出る。 「……いつから居ましたか?」 「つい先程だが」 数歩歩いた所で、小十郎はようやくその気配に気が付き、顔を思い切り歪める。 部屋の傍で佇んでいたのは、ある意味政宗よりも会いたくなかった、義兄の鬼庭綱元だ。この彼こそ、輝宗の指示によって蔦を引きあわせた仲人のような存在であるのだ。 「……何を、お聞きになりましたか?」 「いや。ほとんど聞いていない。何かあったか?」 無表情のまま言うので、いまいちその真意が測りにくい。しかし嘘をつくような男ではない事は、自分が良く知っている。安堵しかけてしまうのを押さえ込んで、ふと聞いてみる。 「そ、そうですか。ところでどうしてここに?」 「お前を探していた。蔦が懐妊したそうだな」 「……どこでそれを」 あの薬師か。 後で締めようと一人で誓った所で、一応聞いてみる。綱元は何だか怪しげな様子の義弟に怪訝そうな顔をしてみせる。 「どうした? 顔色が良く無いぞ。父親になるのが心配なのか?」 「そ、それは……」 「……まぁ、良い。姉上にご報告は?」 「あ、後でします。自分が」 「……そうか」 やはり義弟の反応がおかしいと見たのか、綱元はあまり良くない顔で言ってから、その脇を通り過ぎる。 完全に去った後でも、小十郎は体を硬直させたまま、しばらく動けなかった。 「小十郎ー。子供、出来たんだって?」 蔦の病状をとりあえず風邪という事として、政宗に報告しよう……と心に決めた時である。その背後から伊達成実が声を掛けてくる。 「し、成実様っ……そ、それをどこで」 「んー? 内緒!」 十八なのに、子供っぽく言ってみせる。 あの薬師か、それとも綱元か、はたまたあの夫婦か……眩暈を起こしそうになった小十郎に、成実は首を傾げる。 「どうしたんだよ? 顔色悪いぞ」 「い、いえ……」 綱元と似たような事を言われてしまうから、小十郎はさらに顔を青くする。 「そ、その……政宗様には、その事は……?」 「ん? さっき聞いたばっかりだから。梵兄にはまだ会ってねぇよ」 「そ、そうですか……」 「何だよ。これから梵兄に報告しに行くんだろ? だったら俺が先に言う訳にはいかねぇよ……まぁ、気にすんなって。梵兄だったら喜んでくれるさ」 励ますように言った成実は、軽く伸びをしながら行ってしまう。 確かに、政宗ならば喜んでくれるはずだ。しかしそうもいかない……小十郎はさらい重い足取りで政宗の下へ向かう。 「失礼します」 「Oh・・・今日は遅ぇな」 既に私室で執務を始めていた政宗に、小十郎は平伏する。 「昨日は真に申し訳ありませんでした」 「昨日って……あぁ、蔦の事か。気にすんな。俺も薬師に世話になっちまってよ……はぁ」 政宗は腹を擦りながら呻く。話を聞く限り、愛の『手料理』は大失敗に終ったようである。その顛末につい苦笑してしまうものの、今はそれどころではない。小十郎は努めて普段どおりの声音を保つ。 「その、家内の事ですが、風邪をこじらせたようで……しばらくしたら、屋敷の方に帰そうかと思います」 「風邪か……まぁ、あの夫婦に振り回されたんだろな。猫ならどうにかなりそうだけどよ」 他人事のようにうそぶく主は、思い返すように苦笑する。 「最初から、猫にしとけば良かったな……蔦はお前にはもったいねぇほどか弱いから」 「それは、愛姫様に言ってやればよろしいのですよ」 「何言ってんだ。アイツは誰よりも図太いぞ。だから俺の相手が出来るんだよ」 笑いながら筆を動かす政宗。こんな席で、ますます本当の事など言えやしない。 だが成実にまで知られているとなれば、時間の問題だ。今後の事を考えみた小十郎は、もう頭も痛かった。 ここはやはり、義姉だけには言った方が良いのか。漂流するように喜多の部屋に訪れてみる。 「小十郎にございます。義姉上、いらっしゃいますか?」 「まぁ。こんな所で何をしてますの?」 綱元同様、この方にも出来る事なら会いたくは無かった……何故か愛が代わりに姉の部屋にいたのだ。 「殿も執務で忙しいですのに」 「な、怠けてなどは……」 「あらあら。どうしたの?」 喜多が背後から顔を出してくる。本当は話がしたくて来たのだが、愛がいるのでそれもままならない。 「い、いえ……また、改めて」 「あら。私に隠し事でも?」 予想はしていたが、やはり目ざとい奥方に、小十郎は顔を引きつらす。 だがここは彼女の心身のためにも押し通さねばならない。多分一番傷つくのは、いつまで経っても慶事に恵まれない彼女だからだ……小十郎は首を振る。 「め、滅相な。貴女様がおられるのに」 「あら、そうですの……私に構わず、子の間引きの相談をしてもよろしいのに」 にっこりと……いつもよりも冷たい笑顔で言う愛に、小十郎はもはや押すどころか、退く事さえ出来なくなってしまった。だから、もう一度だけ同じ事を口にするしかない。 「……どこで、そのお話を」 「そこらじゅうで噂になってますわよ。出処は知りませんけれど」 しれっと言う愛の手には、菖蒲。昨日の挽回をするつもりなのか、喜多に花の手ほどきをしてもらっていたようだ。 だが花についてあまり知らない小十郎でも、その美的感覚はどこかずれているような気がしてならない。花器に贅沢に盛られた菖蒲とにらめっこしながら、愛は溜息をつく。 「……そこまでして私を怨むおつもりかしらね。困ったお人ですこと。こればかりは天の恵みですのに」 「そ、それはっ……」 さすがに愛に子が出来ないから、という当て付けでやるつもりなぞない。だが弁解しようにも、喜多が睨んでくるので黙るしかない。 「景綱。他ならぬ貴方の子なのよ。誰もが期待して当然の事……それは政宗様とて同じなのに」 「い、いやしかし、いずれお生まれになる政宗様の和子よりも、年上という訳には……」 「だから間引きするって? 貴方はそれほど殿が大事ですの?」 さらに、愛の目が加わる。その極寒の眼差しに小十郎はますます頭が上がらない。 「その忠義、まさか殿お一人に捧げるつもりでないでしょうね? ならばもう、言った所で仕方ありませんけれど」 「それはございませぬ!」 愛の冷えた言葉を聞いて、小十郎は思わず声を荒げる。 「例え政宗様が討死なさろうとも、その和子をお守りするのもまた傅役だったこの小十郎の務め! それとこれとは話が違う!」 「では、貴方が死んだら、誰があの方をお守りするのかしらね」 持っていた菖蒲をぐさりと、菖蒲の山に押し付ける。 「まさか、他の誰かがあの方の傍にいるのを、天の上で黙って見ているおつもり?」 くすりと、苦笑する愛の言葉に、小十郎はさらに青筋を浮かばせてしまうものの、やがてうな垂れる。 「……失礼する」 そのまま、立ち上がる。新たな菖蒲を手にとりながら、愛は笑ったまま、その背に声を掛ける。 「とは言っても、貴方でしたら、誰であっても許すつもりは無いでしょうけれど」 その一言に、小十郎は思わず苦く笑ってしまう。 「……本当に、いい性格してやがる」 こんな女が産んだ和子を、自分が守るだと? なんて事を言ってしまったのか……言った事に後悔すらしてしまうが、しかし指摘された事にだけは何故か素直に受け止められる。 「そうだな……あの方の右側は、譲れねぇか」 などと呟きながら歩いていけば、途中で綱元が立ち尽くしていた。 「大分、噂が広がっているな」 「義兄上が流したのでは?」 聞いてみれば、綱元は首を横に振る。 「いいや。私はこの話を景頼から聞いたが、彼も出処は見当つかないようだ……しかしそれほど、皆がお前の子に期待しているのだ。これから生まれてくるであろう、政宗様の良き兄姉(きょうだい)になられれば、と」 「兄姉、ですか……」 「そうだ。お前と政宗様のようにだ」 綱元は微笑してみせる。そういう考え方もあったかと、小十郎はようやく反省の念にかられた。 「……あの方には未だ、子が出来ぬのです。それなのに、何故俺だけがと」 「それは天の意のままに、だ。誰の思い通りにならないのならば、何か意味があってそうなったのだと、考えるしかあるまい」 「……天の意、か」 自分と政宗のように、伊達の和子を導くために早く生まれる事となった……そう考えるもの確かに悪くはない、が。 「でもあの姫様は、俺があの方の右側を片倉のものにしか譲る気がねぇって思っていやがるんだ」 つい口調を乱雑にする義弟に、綱元はしばし考えて、答える。 「……意外と、愛姫様の方が正しいかもしれん」 「……」 この義兄までも、か。小十郎は顔をしかめてみせるも、綱元は肩を叩いてやる。 「図星ではないのか?」 「だから、俺は……」 「あぁ、そうか……自分以外の者には譲る気が無い、というのが本心だな」 「…………かも、しれません」 言い当てられてしまったら、もう反論もままならない。小十郎は素直に認めた。 「そうか」 それを聞いて、ようやく綱元は安心したような顔で笑う。それで良かったようだと、小十郎もまた安堵の笑みを零してしまった。 「申し訳ございませぬ」 「ん? 今度は何だよ」 執務も終わって、自室で横になっていた政宗の部屋に訪れて、今度こそ小十郎は本当の意味で土下座をする。 「実は……報告が遅れて申し訳ないのですが、風邪かと思っていた蔦が、懐妊したようで……」 「ふーん」 盗み見れば、政宗は背中を向けたまま、ただ一言そう言うだけだ。やはり先程の報告が嘘であった事は悟っていたようだ。 どう弁解しようかと、小十郎は頭を上げられずに考えるも、政宗が先に切り出した。 「昨日よ。一応薬を貰おうと思ってな。薬師の所に行ったんだ。そうしたら、隣の部屋から呻き声がするからよ。何だと思って見てみれば、蔦が呻いていたんだ……で、背中擦ってやってたら……何だっけか、あれは」 「……悪阻(つわり)、ですか?」 「あぁ、それだ。まぁ、そういう事だ」 政宗は頭を掻きながら、顔を向けてくる。まさか主にそんな事をされていたなんて、と呻きたくなるものの、政宗は続けて言う。 「聞いてみれば、懐妊の事は結構前から知ってたらしいぜ。ほら、女って孕んだら障りも来ねぇって言うだろ? でもお前が長曾我部の世話役を頼むって言うから、無理に来たらしいな。あの夫婦も、それを知って辞めさせろって言ったんだろうよ……」 「そ、そうだった、のか……」 そういえば、一度それを頼みに行った時の彼女の顔は、嬉しそうなものであったが、あまり気色が良いものでなかったように思える。 それでも、彼女は自分のためにと引き受けてくれたのだ。それなのに、自分はそれを喜ぶ所か、厄介そうに見て……。 「小十郎。お前に半月の暇をやる」 不意に、政宗がそう言うので、小十郎は目を見開く。 「そ、それは……」 「蔦を屋敷に送って、しばらくは一緒に居てやれ。俺に嘘をついたのと、間引きしようとした罰だ」 間引きまで見切っていたのかと、小十郎は肩を震わせる。 「……申し訳、ございません」 「俺と愛を気遣ってたのか? そんな余裕あるなら、生まれる子を男子にしてくれって願掛けでもしてこいよ。そいつは俺らの和子の臣になるんだから、しっかり育てるんだぞ」 政宗は頭を垂れたままの小十郎の肩を叩く。 「……俺がいつ、お前の幸せまで欲しいって言ったんだ? そこまで見境ねぇ奴じゃねぇかんな。俺は」 「ま、政宗様……」 「ほら、蔦の所に行けよ。それから、ちゃんと良くやったって褒めてやるんだぞ」 「……御意に」 もう一度叩いてやる政宗に、小十郎はしばらく頭が上げられなかった。 だが、ずっとそうしている訳にもいかない。小十郎はようやく未だ寝込んでいる蔦の下へ行く。 「……蔦」 蔦は布団を被ったままだ。小十郎はその前で腰を落ち着かせる。 「……子について、だが。政宗様も丈夫な子を産めと、喜んで仰せになった。だから……」 「……そう、ですか」 少しだけ、渋っているような声である。その頭を撫でて、小十郎はなおも言葉を重ねる。 「すまない。お前の事を、考えてやれなくて……俺一人が決める事ではないのにな」 「……良いのです。政宗様が、そう仰ってくださるのなら」 蔦は体を震わせながらも、そう呟く。 「ですから、景綱様もどうぞ、お気遣い無く……」 「蔦……」 布団を剥がし、その大事な体を抱きかかえる。 問答無用で、抱きしめる。 「景、つ……」 「そういう事じゃねぇ。いや、でもそうだったかもしれねぇけどな……」 政宗に言われたから間引きが免れた、というのは確かにそうである。 蔦もきっと、そう思っているだろう。しかし否定する言葉も見つからず、小十郎はただそう言うしかなかった。 「あの方にばかり、目を向けて……本当に、すまない」 「……景綱様」 その広い背に腕を回して、蔦は微笑する。 「ありがとう、ございます……それだけで、蔦は十分ですから」 「……蔦」 小柄な体を抱きしめたまま、小十郎は小さく一息ついてから、囁く。 「……男女なぞ、どちらでも良い。だから、健やかでいてくれ」 「はい……でも、男子を授かりますようにと、願掛けもしてありますから」 「……では、今からもう一度行こう」 そこまでしていたほど律儀な妻に、小十郎は厳つい顔で何とか笑顔を作る。 「今度は、二人でだ……二人がかりなら、きっと叶うはずだ」 「……はい」 蔦は柔らかく微笑んでくれる。 ならば、何とか笑顔は出来たのかもしれない。その愛おしい笑顔に、小十郎は心の底から思ってしまった。 ……これだけは、誰にも奪われたくない、と。 教えてやる。でも、奪うつもりなら容赦はしねぇ。 これだけは、俺のものだから。 <了> ▼後書 小蔦でした・・・悩ましい。(え) むー。小十郎、ムズい。もっと精進しなければ。 あと、重綱様の誕生日は、若干ずれてるらしいです。なので注意です・・・。 今更ですいません! 2007/09/15 ※2009/12/16…サイト移転により、加筆修正。 2014/07/13: サイトリニューアルにより改修 誖主の裏話&小蔦懐妊話でした。 まぁ史実ではその息子があれやこれやな逸話がありますが、そこまで書くかは未定ですかね。うーむ、まぁあんな感じになっているんだろうけど。(え) 実はこの夫婦もまた色々とアレなんだが、そんな話はまた別の場所で。 で、この改修にあたって、一つ重大なミスが発覚したので書かねばならぬ……かと思ったんだけど、いざ書いてみたら完全に蛇足だったので一旦ここで了としました。 まぁ、裏話の後日談となってしまいますが、このまま放っておくのもアレですので、気になる方だけ下をどうぞご覧あれ。 すっかり抜けていた懐妊の噂の真相とその後の伊達と片倉のあれやこれやな話です。どちらかと言えば史実ベースです。 ……久方ぶりの江戸である。その門をくぐった時、中から一際元気な声が聞こえてきた。 「小十郎! 早くこちらにいらっしゃいな」 「は、はい!」 あぁ、そうだ。己はその名をあの時の子に譲ったのだ……苦笑しながら、片倉備中守景綱は歩を進める。 伊達の江戸屋敷は外こそ慎ましいが、中はいつも大騒ぎだ。しかし今だけは穏やかを保っているようだ……でなければ、そこの真の主たる愛の身体にも障るからだ。 「あらまぁ……貴女がが小十郎なんて呼ぶから、もう一人来てしまいましたわよ」 姿を見せれば、縁側に腰掛けた女が苦笑いして出迎えた。濡羽色の髪に違和感はもう感じない。それだけ互いに歳を重ねたのだ。 だがその姿だけは相変わらず幼気にも見える。正しく名の通りの愛に、景綱は頭を下げた。 「今は『備中守』だ。折角貰った官位だからな。そこは間違えないで頂きたいものだが」 「どちらでも中身は変わりませんでしょう。ねぇ、五朗八(いろは)」 「五朗八はどちらでも小十郎ですもの」 くすくすと笑うのは、同じく濡羽色の髪を持つ娘だ。輿入れから十五年を経て、ようやく授かった彼女の最初の和子は女子であった。しかし男子を期待していた父親の政宗は、考えていた名をそのまま女子につけてしまったのだ。 いつまでも暴挙ばかりする政宗であったが、当の娘である五朗八もまた、父に似てそれを気にする質ではなかったようである。己を名で指して言うほど気に入ったのであれば、景綱ももはや言う事なぞない。 「姫様、徳川の若君とのご婚儀も控えておりますれば、その呼び癖は早く直した方が……」 「もう上総介様にはお許しを頂いておりますもの。ねぇ小十郎」 「は、はい……この、小十郎……が承っておりまする」 控えめな言い回しだが、父親に答えるのにも度胸がいるのだろう……これで戦場に出れば『二代目鬼小十郎』と恐れられるほどの荒武者になるのだから、とんでもない変わりようである。 だがそれもまた、両親からそれぞれ受け継いでいるものなのだろう。この片倉小十郎重綱も、今年で丁度二十歳。間引きしようとまでした子も、何とかここまで生き残れば、やはりこの手にかけなくて良かったと思えてしまうものである……とはいえこの物怖じが普段からそうでは戴けない。 「左門……お前が留守居役なのだぞ。もう少ししっかりしろ」 「も、申し訳有りませぬ……」 「全く、貴方ときたらいつまでもそうなのかしらね……」 愛は呆れたとばかりにつぶやく。 「もう少し腰を落ち着けたらどうかしら? 近頃は貴方の方が具合悪いと聞いておりますけれど」 「……あまり見っともない姿を見せるのも、どうかとは思いましたが」 「歳を重ねれば誰しも変わりますわ。私とてそうですもの。気にするまでもありませんわ」 「貴女様は歳を重ねる度に若返っているようにも見えて、むしろ羨ましく思いますな」 「ふふ。そこまで言うのなら、私も気にするほどでは無いようですわね」 笑う愛の顔には険もない。気遣いすらも無用だと見たのだろう。だがそれこそ今の景綱にとっては、救われたと思ってしまうのだ。 確かに五十路にも届きそうな歳である。脂がつくのも仕方ないが、昔のように鍛錬するのも億劫になるほどだと、我ながら無様極まりない。だがそんな父に対して、重綱が戸惑いながらも声をかける。 「父上……薬師にはご相談されたので?」 「痛風とも中風とも聞いている。まだ執務には支障ないから気にするな」 「いや、しかし……」 「政宗様にもこの事は言うな。いいか、絶対だぞ」 「そ、そんな、御無体な……あの方は無理ですって!」 政宗の名を出されては堪らないと、重綱は声を上擦らせる。 愛と同じく、ますます精力旺盛となっていく政宗は、側室の数を増やしただけでなく、とうとう衆道にも手を出したほどである――母に似て整った顔を持つ重綱にその手が伸びるのも無理ない話だ。 とはいえ、景綱はそれをも止めようとはしなかった。この子一人で済むのであれば、犠牲は少ない方が良い……と考えた数年前の己も、やはり甘いものである。 「……せめて、お前の口からは出すな。いいな?」 「は……はい……」 「Oh……親子揃ってまた内緒話か。お前も本当に相変わらずだよな、小十郎」 重綱の顔が引きつった。その背後から、またもや不穏な声がとんできたのだ。 この彼だけは、景綱を相変わらず『小十郎』と呼ぶ。きっと死ぬまでそうするつもりなのだろう……だがそれすらも咎める気にもなれないのは、やはり己に彼の右側を誰にも譲れぬと思えてならないからだ。 「とにかく無理すんじゃねぇぞ。家康の奴だって、お前のために江戸一番の薬師を呼ぶって言ったんだ……あぁ、その薬師も明日来るっていうから、逃げるんじゃねぇぞ。いいな?」 「政宗様こそ、唐突な思いつきはお控えくだされ。今日中に白石へ発つつもりでおりましたのに……」 景綱は頭を抱えてしまうが、彼……伊達陸奥守政宗の強引さは今も変わらない。 「No! それも気にすんなよ。お前の供には俺が日をずらせって言ったからな」 「そ、そういう問題では……」 「それより片倉の小父上。そんな所で突っ立ってないで座ったらどうですか」 景綱を小父と呼んだ青年が、率先とその手を取る。在りし日の政宗のように、如何にもやんちゃそうな風体であるが、大人達に対しては口調を正すほど律儀者である。 「あ、あぁ……これは、申し訳ない」 「お気になさらずに……おい小十郎。テメェもそこで突っ立ってねぇで小父上に座布団用意してやれよ!」 「た、ただいま!」 口調まで変えて怒鳴った青年に、重綱が慌てて室内へと引っ込む。それを見ていた愛は、またもくすくすと笑っていた。 「やはり貴方が一番父君に似たようですわね、兵」 「そう、でしょうか……?」 景綱を縁側に座らせてから、その青年こと伊達兵五郎秀宗が首を傾げる。長子でもあったから、奥州に居た母の猫御前よりも上方の人質生活が長い彼である。同じく上方に居た愛がその養育をする事となったが、仲については良好だったようだ。 「ぼんやりしてた『小十郎様』を叱るのも政宗様の御役目でしたものね」 「そういえばそうだったな。まぁでもよ、左門だってここでちゃんと兄代わりしてくれたんだぜ。その辺は大目に見てやってくれよ」 「こじゅー! おうまさんやってー!」 「はっ! ただいま!」 政宗に抱かれていた幼子もまた、重綱を呼んでいる。政宗と愛の嫡男たる虎菊丸も、今年で五歳だ。十五も歳が離れてしまったが、兄代わりとしての役目は果たしているようだ……それを見てしまうと、ここにいる己こそ違和感を覚えてならない。 「弱ったな……もう俺にはする事もねぇのか」 「それでいいじゃねぇか。やっと落ち着けただろ」 その隣に座って、政宗は楽しげに笑ってみせる。 「俺の子供達はやっぱり揃って手間ばかりかける奴らだったんだ。左門を救けて正解だっただろ?」 「……そうですな。左門めが出奔どころか躁鬱にならぬのが、真に不思議でなりませぬ」 「おい、そこまで言うかよ」 真顔で言い切った景綱に、政宗が心外だとばかりに呻く。 「結局お前の間引きを俺が食い止めてやったんじゃねぇか。少しはありたがいと思えよ!」 「それは結果的にこうなったからこそ言えるものですぞ!」 「父上様……間引きって何ですの?」 にわかに始まった口論を聞いて、五朗八が初耳だと首を傾げる。それに異母兄の秀宗が代わりに答えてくれた。 「小父上は律儀だからな。小十郎の奴が俺らより年上になるのは戴けねぇからって、間引きまでしようとしたんだと」 「まぁ、そうでしたの……でもどうやってそれをお止めに?」 「止めたんじゃねぇよ。父上が家内に懐妊の噂を広めて囲い込みやったんだ。そりゃ出来なくなるわな」 「人聞き悪い事言うなよ兵!」 息子にまで言われてしまえば世話ないが、景綱はそれに対して怒りを覚えるまでもない。 ……最初に蔦の現状を知った政宗は、きっと己が間引きまで考えようとしたほど気にする質だと見切ったのだ。それは綱元も同じだったようで、その話を政宗から聞かされた後、義弟の顔色を見て確信を得たという。 そんな彼らが噂を撒いた事によって、間引きを事前に止めようとしたのだ。皆ならば、景綱の子が政宗の子を導くものだと思ってくれるだろうからと。 ……そこまでこの片倉に期待をしてくれるとは。思い返せば、急に目頭が熱くなる。だがこんな所で泣く訳にもいかないから、生来の厳つい顔をさらにしかめる。 「……秀宗様。虎菊丸様にもよくよくお伝えくだされ。あの愚息の時は、もう少しお手柔らかに祝ってくださるようにと」 「は、はい……でもまぁ、俺だってそうだけど、虎もそこまでやらないですよ。愛の母上の子ですし……」 無理矢理笑顔を作っている重綱、その背に揺られて楽しそうに笑う虎菊丸を見ながら、秀宗は苦い声を漏らす。 「……もう少し、上手い方法を思いつきますよ。多分」 「あら、私の子なら悪巧みするとでもおっしゃいまして?」 傍で聞いていた愛がわざとらしく尋ねる。笑顔でも中身は知れたものでないとは、彼も良く知ってるようだ。取り乱してまで首を振る。 「ち、違います母上! 俺はそこまで言ってないっ!」 「まぁ落ち着けよ……ところで小十郎、今日は何でここに来たんだ?」 腕の中で眠っていた次男の卯松丸を愛に渡しながら、政宗は景綱を見やった。 「俺もお前が江戸に来たって言うから、慌てて来たんだぜ。何かあったんかよ」 「実は私も良く分からぬのです……義姉上から、ただ江戸へ行けと言われたので」 今は景綱が治める白石の地に庵を構える喜多である。政宗もその後の状況は良く伺っていないのか、やはり首を傾げる。 「そっか……喜多は元気だったか? そのうち俺も仙台に帰るからな。ちょっとは顔、見たくてよ」 「義姉上もそう仰っておりました。帰ったらお伝えしましょう。しかし何を思ってこちらに寄越したのか……」 「ちちうえさま、こじゅーだよ!」 と、そこで背後の虎菊丸が、とことこと可愛らしい足取りで父の膝に乗った。 「あのね、こじゅーのね、あねうえさまがね……」 「と、虎菊丸様!」 重綱が慌てて止めようとする。どうやら用事はこの愚息にあったらしい……景綱は重綱を睨む。 「左門、義姉上に何か伝えたのか? それならば、まずは政宗様を通してからだ」 「身内の事なら俺が関わらなくたっていいだろ。さっきの懐妊の話だって、本当は部外者の俺なんか気にしなくて……お、おい」 何かを思い当たったのか、政宗は顔を引き攣らせる重綱をまじまじと見つめる。 「……まさか、お前も『それ』の事だったりするのか?」 「つい半月前の事でしたけれどね」 そう言ったのは愛である。未だに良く分からない景綱の顔を見て、さらに声を弾ませる。 「先程の頼みですけれど、兵も虎もちゃんと『喜んでくれました』からご心配なく。ただこの歳の差だと、『今度』は兄というよりも父代わりになるやも知れませんけれどね」 「……なんて事だ」 景綱は今度こそ堪えきれなくなって、顔を覆いながら晴れた空を仰ぎ見る。それを見て、申し訳無さそうに佇む重綱が、おずおずとつぶやいた。 「父上……私は、もうすぐ生まれる子を、間引きしようとは思いませぬ」 既に己の身の上の話を知っている重綱にも、思う事はあっただろう。彼もまた、この日のために覚悟を決めたようである。その声音は正しく鬼小十郎の名に相応しく、鋭く制するように言い放った。 「ただ先に生まれるのであれば……今度は父上のように皆の子の良き兄貴分か、叔母上のように皆の良き姉貴分になるよう、育てたいと思います」 「……いいや。そこまで、しなくていい」 主の前であるが、景綱は思わずそう言ってしまった……同じように老いたが、未だに支え続けようとする妻の事を想いながら、震える声で返す。 「……良いんだ。妻子が無事であるのならば、それに越した事はない。子はいずれは大人になり、がむしゃらに獣道を突き進む事になろうとも、その結果に己の良き道を見いだせれば、自然とそれに続く者らの旗頭になるのだ。お前とて、結局父の俺の言う事を聞かずに『鬼小十郎』になってしまったじゃねぇか」 「そ、それはっ……父上が小煩いからっ……あ、えっと、その……」 つい日頃思っていた事の本音が出てしまったか、慌てて弁明しようと呻く重綱。やっぱりそうかと、景綱は頭を振った。 「ほら、な。周りがどう言おうとも、子は勝手に育ってしまうものだ。あえて言うならば、導きよりも、誰かの手助けが出来る者になるようになればいい。きっとそれが、急事の時に何よりの導きになるはずだ」 「……はい。承知、しました……」 「こじゅー! よかったね!」 緊張も解けて照れ笑いを零した重綱に、虎菊丸が満面の笑みを零す。その子を抱く政宗の顔にも、同じ父親としての喜びに溢れている。 きっと彼も、そのように傅役の妻の懐妊を祝いたかったのかもしれない。それだけが悔恨となってしまったが、不意に目を向けていた景綱にも、彼は柔らかい微笑みを向けてくれた。 ――そんな事を言えるようになったのならもう心配はいらないな、と。 朋友のように、気安くも慈悲に満ちた眼差しだった。それをかつての片倉小十郎は、目元を感涙で滲ませながらも、同じように緩い微笑みで返した。 <了> 2014/08/10 |
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