最初の男――と言ってしまうと誤解が生じるかもしれないが、雑賀衆の一人たる『さやか』の最初の契約者は、金の亡者である本願寺顕如であった。
 燦然と輝く本願寺の御前に立った時、感慨すらも覚えた程だ。これでようやく、己は師と共に戦えるのだ――だが己が個(さやか)でなく全(雑賀衆)である事も忘れかけるほどの胸の高鳴りは、生娘の如く浅ましいものだった。
 そしてそういう時に限って嵌まる落とし穴は、容易に抜け出せないほど深いのだ。


 明るく輝いた空を見上げながら、雑賀孫市はそっと溜息を付いた。
 今日の戦も豊臣の圧勝で終わってしまった。戦の結果なぞどうでも良いのだが、我らが誇り高き雑賀衆の働きぶりは疑いようもなく十全である。勝敗でなく、生きるために戦う傭兵にとっては過程の方が大切なのだから、炎上した城跡がどのように扱われるのかも知った事ではない。
「……それにしても、景気良く燃えることだ」
「は? 如何しましたか、頭領?」
 呟きは側近の耳にも届いてしまったようだ。孫市はすぐに頭を振った。
「いいや、何でもない……今日も良い働きをしてくれた。感謝する」
「はっ、ありがたく……」
 慇懃に頭を下げる側近に、孫市は緩い笑みすら見せて言った。
「今日はこれで仕舞だ。撤収の準備を」
「孫市!」
 甲高い男の声が、孫市の命令を遮った。しかし孫市にとって、それはもはや豊臣軍での日常にも等しい。
「……これは早計であった。まだ戦は終わっていなかったか」
「何の話だ?」
 撤収しようとした己らを止めようとした声では無かったらしい。紛らわしいものだと、孫市は改めて声の主を見やる。
「ならば問おう。戦況は収まりつつあるようだが、我らの出番はまだあるか?」
「あの城こそ本丸だ。貴様らの出る幕はもう無い。それよりも、次の契約の話をするぞ」
 未だ炎上しつつある城には、顔すら向けなかった。ただ薄闇に浸るその目は、獲物を見定めるように孫市を捉えて離さない。
 先代の孫市に付き従ってから早十数年。戦場で見る男達の中では、この彼は特異の部類に入る。傭兵よりも自国の臣を信じる方が普通だというのに、この彼は主の次に己らを信頼しているらしい……鬱陶しい訳ではないが、このように長く引き留めようとする武将は、後に敵となったら厄介だ。むしろ客として出会ってはならなかった者だろう。
 しかしこのようになってしまったからには、もはや遠ざける事も出来ない。そもそも誰であっても契約を結べば従うのが雑賀衆の売りである。頭が拒む訳にはいかない。
「もう次の戦か。豊臣の威光ならば、そろそろ落ち着いても良いのではないか?」
「残念ではあるが、秀吉様の御心を知らぬ愚者は巨万(ごまん)といるのだ。休む暇は貴様だけでなく、私にも無い」
「我らの事は気にしなくて良い。我らは悪く言えば、その日暮らしの身の上だ。契約の続行が正式に整えば、本日中に出立しよう」
「分かっているならば秀吉様の陣へ急げ。雑賀は貴様だけ居れば事足りる」
「了解した……お前は待機を伝えろ」
 傍に控えていた側近にそう伝えると、実直な側近は一つ頷いて立ち去った。後は己が上手く立ち回り、少しでも長い休息の時間を勝ち取れば万々歳、といった所か……溜息を胸中に押し留めて、孫市は未だに立ち尽くしていた男へと目を向ける。
「何だ? 今宵の豊臣の本陣ならば我らも良く知っている。今更案内をしてくれると言うのか?」
「そうではない。撤収と言っていたが、貴様らはこれで仕舞と思っていたか?」
 男の手が柄に触れる。早打ちならば雑賀一の孫市であるが、この男の抜刀は音に聞く《軍神》上杉謙信にも迫るものだ。早さ競べをここでやるのは弾だけでなく命まで無駄になるだろう。しかし孫市はそれしきの事で言葉を選ぶ者ではない。
「戦は我らにとって、仕事のようなものだ。だから戦が終われば、契約の完了にもなる。しかも契約の続行は先ほど初めて聞いたのだからな。早とちりはどちらかと言えばお前の方だ」
「つまり、貴様はもう契約は完了したと言いたいのか?」
「そうだ。完了したのだから、次の仕事を引き受けるくらいの暇はある。お前も『次の契約』と言ったではないか。我らにとって、これは仕切り直しというものだ」
「……言葉遊びは面倒だ。早くそう言え」
 殺気すら漂わせる男に、孫市は今度こそ隠さずに飽きれた顔をしてみせる。戦の後だから収まりきれないのだろうが、そのような空気にいつまでも浸っていたら、冷静な判断なぞ出来ない。
 しかしこの男はそれにこそ慣れているようだった。正気なぞとっくの昔に手放してしまったのだろう。そう思えるほど、この男――《覇王》豊臣秀吉の左腕、石田三成の気性は尋常なものではない。
「困ったからすだな。まぁ良い。次からは心掛けておこう」
 本来は左腕として、雑談の一つくらいは慣れても良いはずだが。しかし金払いの良い上客をみすみす手放すほど愚かではないから、孫市は自ら折れてやる事にした。


 初めて会った時、この三成は今よりも荒んだ男であった。
 多くの仲間に囲まれているというのに、いつでも孤高であり続けた。主たる秀吉さえ居ればそれで良いと本気で言い出しかねんほどの、愚かにもほどがある『からす』だ。
 しかしこの『からす』は、きっと大陸の文字で書くとするならば、凶つを呼ぶ牙持つ烏の方に違いない。ただ愚かであったら、あの黒田某のように勝手に破滅するはずだからだ。
 だが彼はそうならず、奇跡的に生き延びている。見境なく行動しているように見えて、実は主のためにと繊細な働きをする男だからだ。純粋かつ几帳面と言っても良い。ただそれゆえに緊張が解けず、自身が歪んでしまったのか……。
「孫市。次の小田原攻めでの活躍を期待する」
「了解した。我らも十分な備えをしよう」
 豊臣秀吉という武人の評価はとても高い。臣はともかく、彼は己を人と認めるくらいには王の器に相応しい男だ。弾薬等でとかく消費の早い雑賀の苦労を見越して、次の戦までに一月の猶予までくれたのだ。早々に見限るなど以ての外である。
 だからお前も気を抜けば良いのにと、孫市は傍に控える三成を一瞥する。秀吉の御前だからこそ秘して耐えているようだが、やはり苛立ちの色まで隠せない。ずっと顔を伏せたままである。
「皆々、今宵は存分に働いてくれた事を感謝する……もう下がって良い。始末は我がやろう」
「いいえ秀吉様。始末はこの三成めにお任せを」
 炎上した城には、まだ残党も残っているだろう。それを見越して言った秀吉だが、三成が声を上げる。
「秀吉様の御手を煩わせるまでもありません……この三成に、残党を殲滅する許可を」
「いやいや三成様こそ疲れてるんじゃないっすか? それなら下っ端の俺がやりますって」
 一番格下のはずだが、この彼ならばやはり気づいていたようだ。その三成の側近たる島左近がすかさず手を挙げる。
 この彼こそ、三成の緊張を解きほぐした男である――いつぞやにそんな事をぼやいていた三成の同僚たる大谷吉継は、今もその唐突な挙手を観察するように見守っている。忠義に傅いたが故に乱心した男には、同じく狂う前の忠臣を宛てがった方が落ち着くと見たのだろう。このような次代の参謀候補もいるからこそ、石田三成はここまで己の地位だけは保っていられたに違いない。
「貴様は……下端とほざくなら、口を慎め!」
「三成君。君こそこの場を弁(わきま)えずに怒鳴りつけるのなら、僕は左近君に任せる事を薦めるよ」
 そんな彼の怒声を、冷徹な囁きが制した。成り上がりの豊臣軍は、家よりも軍事力に信望する輩が集まる。そしてこの成り上がりの最大の功労者こそ、今孔明と誉れ高い竹中半兵衛である。その絶対の見立てに対し、さすがの三成も息を呑んで青ざめる。
「し、しかし、半兵衛様……」
「君は今日の戦で十分に活躍した。だからこそ、残党らは君を警戒するだろう……近辺の騒ぎになるよりは、いかにもな小悪党が闇夜に紛れて始末をつけた方が迅速に終わると思うけれどね」
「さっすが半兵衛様……って、俺ってやっぱり小物扱い?」
「ぬしの軽薄さも、たまには役立つというものよ。賢人の策に使われる誉れを存分に噛みしめるといい」
 一瞬だけ舞い上がった左近が賢人の低評価に気づいてしまったのを見て、吉継は良い気味よとばかりにほくそ笑む。だがその目はすっかり萎縮してしまった三成に向けられる。
「三成、今の主では獣にも逃げられる。ここは一つ、次の戦で存分に腕を振るえるよう骨休みでもする事だ」
「うむ。それが良かろう……左近よ、我と三成の期待を裏切らぬよう、一人残らず狩り尽くせ」
 一先ず収束した頃を見計らって、秀吉は重々しく下知を飛ばす。さすがの左近も主の落ち込みように躊躇してしまったが、言ってしまった事まで賽と共に投げる男でもない。すぐに気を引き締めて頭を下げる。
「承知仕りました! 島左近、行って参ります!」
「……一人でも逃してみろ。貴様をこの手で彼岸へ送るだけでなく、私が此岸(しがん)にて秀吉様に詫びる事にもなるぞ」
 三成も恨めしい声を漏らす程度には回復したようである。びくりと肩を振るわせた左近であったが、すぐに気を取り直して再び主に頭を下げ、風のように駈け出した。それを見送って、秀吉は床几(しょうぎ)から立ち上がる。
「では今宵は解散だ。朝議には左近も帰ってくるだろう。撤退は彼奴の戦果次第だ」
「そうだね。という訳で三成君、今宵はしっかり身体を休めてくれ……残党狩りは誰でも任せられるけど、豊臣軍の殿軍(しんがり)は君にしか任せられないんだ。頼りにしてるよ」
「はっ! その御役目、必ずや果たしてみせまする!」
 先程とは打って変わっての半兵衛の期待の言葉に、三成もまた尻尾を振る子犬のように気色が蘇る。やれやれこの男はと、吉継だけでなく、半兵衛も肩を竦めてみせる。
 そのような、いつもの豊臣らしからぬ軍議に眉を顰める者はいなかった――この豊臣軍が快進撃を続けているのは、圧倒的な軍事力を誇っていた徳川軍が出奔してしまった後でも揺るがぬ『絆』を持ち得たからであろう。いや、むしろ一層深まったと言っても良い。
 そういう意味では、人との絆を大切にする徳川家康にとって、これほどの皮肉を感じられずにはいられぬであろう……結局傍から見物してしまい、その顛末に含み笑いをしそうになった孫市だが、いつもの鉄面皮はそこまで軟ではないから堪える事は出来た。


 本陣から退出すれば、辺りは既に暗闇を取り戻していた。
 美しい三日月も瞬く星々も、いつも通りの様相だ。だが戦が終わった後の静けさに落ち着けないのは、三成だけでなく孫市も同様だ。
 戦場に慣れてしまった者は、もう昔の穏やかな日々では生きづらいのだ。そういう意味で、孫市はあの三成の苛立ちに同情を禁じ得なかった。よくよく思い返せば、あのように乱れた男など雑賀荘でも見られるものだ。
 だがその末路は散々たる有り様だ。前日は何事もなかったのに、翌日に己の頭を銃でふっ飛ばした奴だっている。狂うとはそういうものだ。言葉に出来ぬ何かに襲われ、容易く人の道を外れてしまうなぞ、それこそこの戦乱での日常である。
 つい最近、そんな戦乱を復活させんとした将軍が天政奉還の勅令を発したそうだが、浮世離れしたあの彼こそ最初に人の道を外した男だ。そういう奴が上に居たから、続こうとしたあの忌まわしき魔の王すらも……。
「……いけないな。我らには、次の仕事が待っているというのに」
 荒ぶっていたのは『己』も同じようだ。雑賀衆の陣へと戻る道中、鬱蒼と茂る木々に入り込んで、大きく深呼吸をする。
 全たる己に、個の信条や感情を持ってはならない。怒りも憎しみも、等しく皆と共有すべきだ。今更そんな様を彼ら――己らには見せられまい。
「全く、奴の殺意に気でも触れたか」
 獣のような呻きを発しながら、務めて落ち着こうと繰り返し息を吐く。回を重ねれば少しは穏やかにもなってきたが、まだ月の光には晒せぬほどの醜態だ。誇り高き雑賀衆の頭領がこれでは、周りに示しがつかない。
「……おい、そこにいるのは誰だ?」
 だから、その気配に気づくのが遅すぎた。これは不味いと、孫市が顔を上げる。
「……お前こそ、こんな所で何を」
 月明かりの下に居たのは、見知った顔である。男にしては真白過ぎる三成が、首を傾げて尋ねた。
「その声は孫市か。雑賀の陣に戻っていなかったか?」
「それを知っているのなら、お前は何故ここにいる? 我らをまだ疑っているのか……」
 裏切りに関してはとにかくしつこい男である。未だに整わぬ呼吸も構わずに、孫市は茂みから出る。
「こんな夜更けに訪ねるほど、私は不躾ではない。明日のために早く床につきたいだけだ」
「だったら早く陣に戻れば良いものを……まさか眠れないとでも言うのか?」
「…………私が床につくのは、子の刻(午前零時)だ」
 ぽつりと、三成が告げる。漏刻(ろうこく)なぞこの場で見られぬものだから、孫市は夜空を仰いだ。月はまだ、天頂には届いていないと見える。
「……それで、いつもは何時起きるのだ?」
「寅の刻(午前四時)だが?」
「……からすめ。それでよく身体が持つものだな」
 異様な白い肌は、ただ日を嫌うだけでは無かったようだ。孫市は顔を歪めるも、それしか言えなかった。
 この彼は左腕と名の知れた武将として活躍しているだけでなく、大坂城下では奉行としても腕を振るっている。いつでも景気の悪い顔をしているが、その政までは悪いものでは無いらしい……実際、雑賀荘の兵糧の仕入れもまた、彼が治める堺(さかい)という港を経由する。現在は豊臣の一員だからと税の減免までしてもらっている身の上、やはり彼を叱りつける事はままならない。
「豊臣は日々勢力を拡大しているのだ……それをお支えする我らが家臣に、寝る暇なぞありはしない」
「だが先ほど、その頭領に休めと言われたばかりではないか。身体を横たえるだけでも、お前は……」
 きっと気を失うように寝てしまうだろう。そう言いかけた孫市だったが、つい口をつぐんでしまった。
 血走った双眸で、三成が睨んできたからだ。
「……私だけが、のうのうと休めだと? 巫山戯るのも大概にしろ孫市。刑部は病もあるからともかく、あの左近も残党狩りに勤しんでいるのだぞ。私が先んじて休む訳にはいかぬ!」
「……それで、お前もその残党狩りをしようとここまで来た、という訳だな? しかしそれでは主命を叛くことになるぞ」
「狩りをしに来たのではない。見回りだ……どうせ奴の事だ。一匹くらいは逃すだろう」
「見回り、か。何事も無ければ良いが」
 納得はしたが、この男の生真面目さはもはや狂奔そのものだ。またも刀を抜きかねんほど苛立っている三成に、孫市は自らが先に肩の力を抜いた。
「その忠義心は見事だ。さすが我ら雑賀衆を使いこなすだけの事はある……しかしその目は良くない。女も月の障りで心乱れる事があるように、男とて月の魔性に当てられるものだ。今のお前は正にその疑いがあるぞ」
「どういう意味だ? 魔性……とは、あの魔王のようなものを指すのか?」
「そうだ。奴なら既に月すら克服しているやもしれんがな。しかしお前はまだ囚われたままだ……このまま闇雲に刃を振るえば、そのうち夜にしか生きられぬ性となろう。己の身だけで済ませたくば、早く刀から手を離せ」
「……良く分からんが、確かに今の己が良くない事は、理解している」
 剣帯に刀を差して、三成は大きく溜息をついてみせた。孫市の様子で、今は敵も近くにいないと見てくれたのだろう。そういう猟犬じみた嗅覚もまた、狂気の成せる技の一つだ。
「しかし……家康が抜けた穴を、私が埋めねばならんのだ。今、そのような大役を担える者が他にいないから、私が補填せざるを得ぬ……」
 だが孫市の予想に反して、三成の言葉には紛れも無く理性があった。その顔はやつれながらも苦悶の表情がはっきりと滲み出る。
 確かに徳川の軍事力はかつての織田だけでなく、豊臣も重宝していた。あの本多忠勝も出陣してくれるからこそ、豊臣軍はいつだって大坂城の守りを万全に出来た。しかし徳川が去った今、半兵衛すらも不安が残る人選しか出来ない有り様だ……だがその恐れは、臣下である三成が一番身に沁みて感じ取っているだろう。
 雑賀衆との契約を続行しようとするのも、ただの狂気からでは無さそうだ……が、雑賀荘の全てを担う孫市には、同情ばかりも出来ない。これこそ危うい仕事なのだと、この瞬間に気づいてしまったのだ。
 『軋み始めた船はな、早めに乗り捨てるしかねぇんだよ。例え小さな穴でも、水が滲み込めばあっという間に沈没するもんだ』と、あの長曾我部元親も言っていたではないか。
「……どうした孫市。貴様の考えている事くらい、この私でも分かるぞ」
 物思いをし過ぎてしまったようである。いつの間にか抜かれていた鋭い刃が、喉元にひたりと差し込んだ。
「豊臣の『穴』、貴様になら埋められると思っていたが……まさかここで逃げようとするのではあるまいな?」
「その穴について漏らしたのお前の方だろう……わざと語って我らの誠意を試したか? それとも、ここで私を殺すための口実でも作る気か?」
 評価をしない者らに対しては容赦しないのが雑賀衆である。彼に理性があるとするなら、それはすなわち雑賀衆を殲滅する計画を密かに進めていた事になるだろう。
 ならば、今更言い訳をするまでもない。覚悟を決めて腰の短筒に触れようとした時だった――三成の刃が、急に退いた。
「貴様……逃げる気が無い、と言うのか?」
「……このからすが。我らを見縊るな」
 どうやら誰かにその『穴』を漏らされるよりも、あくまで雑賀が裏切る事を心配していたようだ。どちらかと言えば、身内に敵方の内通者を持つ方が危ないというのに。
 しかしそれを忠告として言っても、要らぬ誤解を招くだけである。刀を納めた三成は、今度こそ納得……したからこそ、困惑しているようだった。
「……では、何故貴様は笑っていた?」
「笑う? それはいつの話だ?」
「先程の軍議だ。最後に、貴様は笑っただろう……まるで、混迷する我らをあざ笑うかのように」
「……あぁ、あれの事か」
 確かに笑おうとしてしまったのだ。しかしあの笑みは、そういう意味で込み上がったものではない。
「あの軍議を、お前は混迷と称するのだな……実直なお前ならば、あの程度の揺らぎすら生真面目に反応してしまうのだろう」
「どういう事だ?」
「我ら雑賀衆は全であるが、お前達のような家に対しては一つの個として立ち振る舞うのが常だ。その代表がこの私であろうが、他の者であろうが、それは変わりやしない」
「良く分からん。明瞭に言え」
「お前らのように、例え個の揺らぎがあったとしても、別の個がそれを収めてくれているではないか……お前の言う『穴』なぞ、私の目には映っていない。いや、もう既にお前達が気づかぬ間に塞いでしまったのかもしれんな」
「そういう……もの、なのか? だが、私には……」
 困惑する彼の目には、何も映らない。いや、虚ろそのものを見ているのだろう……それに気づいて、孫市は先程よりも柔らかい声をかけた。
「もしお前の目に見えているとするならば、それはお前自身の『穴』だ。それを我らで塞ぐ事は、きっと叶わないだろう……豊臣を去ってしまった、徳川自身でもな」
「……私の、穴だと」
 先程の仕返しとばかりに、孫市は短筒を三成の胸に突きつけた。だが三成は呻いたまま、抵抗しようともしない。
「我らの弾丸ではその『穴』を広げてしまうやもしれない。そしてこの私の弾丸はいつか来る日のためにとっておいているから、お前にくれてやる気はない。そして徳川は……その『穴』を塞ぐために、『穴』自体を無くそうと考えているかもしれないな」
「塞ぐために……無くす、だと? どのようにするのだ?」
「……知りたいか?」
 この純粋な彼に教えるのも酷だろうがと、孫市は己の目に見惚れて銃の事を忘れている三成のために、その大一大万大吉の鎧に銃口をカツカツと音立てて突いてやる。
「穴を無くす方法は二つある。一つはその『穴』が穴のように見えなくなるまで、全てを虚無へと返してやる事。もうひとつは『穴』が穴のように見えなくなるまで、お前の目を塞ぐ事だ……徳川自身ならば後者を取りたがるだろうが、恐らく情勢は前者を取れと責め立てるはずだ」
「……私だけでなく、豊臣まで滅ぼそうと?」
「まだ動きははっきりと見えないが、小田原の北条は徳川に付く意向を示している。それ故に挙兵するのなら、徳川にも出陣の大義名分が出来る……理解したのなら、自らがしばし目を塞げ。その『穴』は間違いなく豊臣にも災いを齎す」
「…………それを、何故貴様が私に教えようとする?」
 理解はしてくれたのだろう。理知の光も見えていた目が突如歪むと、たちまち怒りの形相へと変わる。
 そして銃身を掴んで孫市を睨みつける――引き金に指をかけていたら間違いなく暴発していただろうに。さすがの孫市もその暴挙に立ち竦む。
「私は既に指導者の身だ! 指導者であれば、この目は現実を見なければならない! 一つでも豊臣の穴を見逃せば、それこそ災いの元凶になる……!」
「……その穴がお前自身になったらどうするつもりだ。あの竹中半兵衛だけでなく、お前の主すらそれを危惧して休めと言っていたのだぞ」
「それも……知っては、いる」
 厳しい目をしていたが、声がかすれたものとなる。ようやく、彼の闇の奥底まで辿り着いたように見えるから、孫市は引き金に触れぬよう、慎重に手の力を籠める。
 三成の手の震えがにわかに激しいものへと変わっていったからだ。
「知って、いるのだ……だが皆は、どうしてそこまでして、私の目を逸そうとする……」
「……お前が生真面目過ぎるからだ、からすめ」
 怯えながらも、ようやく胸の内を明かそうとしてくれるようだ……が、孫市は最後まで聞く気になれなかった。
 やっぱりこの男は生真面目で、純粋だった――だからこそ、ここまで狂ってしまったようである。狂人の戯言になぞ付き合ってはいられない。
 よくよく近づいて見やれば、彼の顔の白さの正体は何の変哲もない、白粉である。しかも目元を特に厚く塗っているようだ。
 化粧を施した者が彼自身かどうは知らないが、紛れも無く寝不足による隈を隠すためのものだろう。だが激務による生活の乱れは単なる寝不足だけに留まらないはずだ――この彼は南蛮の船も時折やってくる堺を統べているから、催眠のための芥子(けし)まで手にしているかもしれないのだ。
「石田、私の声はまだ聞こえるな? まだ子の刻ではないかもしれんが、いい加減に休め。出来ないのなら、私が力ずくで寝かしつけてやる」
「……そこまで、世話される筋合いはない。私は……」
「そういえば、妻子もいる身と聞いたな。だが今の貴様はまるで駄々を捏ねる童(わらべ)だ。こんな様を知られたくなければ、私の言う通りにしろ」
「貴様……その話、何処で聞いた?」
 その言葉に、三成の顔色が明らかに変わった。あの軍議のように青褪めているという事は、それほど国許の家族に知られたくない秘事だったのだろう。どうやら化粧は、彼自身が見栄えを良くするために施した対策らしい。
 これこそ面倒事になりそうだ。察した孫市は、苦い顔をしながらも提案した。
「そうだな。お前がきちんと眠ったら、殿軍での道中で教えてやってもいい。雑賀はそのような暇は無いが、ここまでお前を辱めた私には、気晴らしに付き合う義務がある」
「……気晴らしをした所で、現実の問題を解決出来ねばどうしようもない」
「実に奉行らしい考え方だが、それも日常で解決出来る範疇かもしれんぞ」
「そういうもので片付けるな。家康は、私の……」
「いいか、石田」
 ここは一つ、口づけでもして黙らせた方が効果的だったかもしれない。しかし妻子もいる男にそんな事をする訳にはいかないから、孫市は強引に遮る事にした。
「個が個を支えれば、やがては全のように何もかもを覆い尽くすものとなる。そうなれば、お前の『穴』は自然と塞がれてしまうものなのだ……もしお前がその個を大事にしようと言うのなら、同じように他の個も気にかけてやる事だ。でなければ、その中にお前のように拗ねる者が現れてしまうぞ」
「……もう、裏切りを出さぬようにする、という事か?」
「そういう事だ。徳川の事を忘れろとは言わん。まだ完全に切れていないのなら、程々に想うだけにしておくのが肝要だ……例えばこの空の下、のうのうと生きている奴の間抜け面でも夢想してみろ。怒りも馬鹿らしくなってくるぞ」
「そうだろうな……今頃は絆が一番だと、家臣らに吹聴しているに違いない」
 脱力してしまった三成の手が、銃身から離れる。こんな夜更けだから、現実では間抜けな寝顔でも晒しているはずだ。しかしそれを指摘する方が野暮である。彼の顔は戯言をこぼす程度には緩んでいたからだ。
「落ち着いてきたか? では、そろそろ宿舎に戻るといい。私も休息を取りたいのだ……」
「そうか……では休め。貴様こそ女なのだから、無理はするな」
 思わぬ気遣いに孫市は目を丸くしたが、しかしそれもすぐに緩む。
「……石田。お前、そこで寝る気か?」
 未だ残党が彷徨くだろう道の途中……その木々の茂みに、三成は愛刀を抱きしめながら腰掛けたのだ。
「ここは秀吉様が制されたのだ。何処で寝ても変わらぬだろう」
「からすが、そこまで無頓着だと思っていなかったぞ……」
「あっ、雑賀の姐さん!」
 顔を引きつらせた孫市の背後から、快活な声音。見やれば、血飛沫もかかった顔で笑いかける優男――島左近だ。
「いやぁ、残党狩りなんスけど、結局雑賀の皆さんにも手伝って貰っちゃいまして……って、うわわわわ! 三成様、またこんな所で……!」
「おい、これは日常なのか?」
 主の所業を見かねて、左近が素っ頓狂な声を上げている。だがその言葉から察するに、初見ではないようだ。
「そうなんスよ……三成様って、仕事以外の事がまるで駄目なお方で。ここだけの話、隈を隠すために化粧もしちゃってるらしいんスけど、加減知らないからいっつも厚塗りになっちゃって」
「左近……明日までに辞世の句を熟考しておけ……貴様を斬首した後……大坂の城下で披露してやる……」
「なんっスかそれ! 処刑よりも嫌過ぎるからやめて下さいよ! 頼みますからそのまま寝ないでー!」
 左近が腕を振って激しく拒否するも、ようやく緊張が解けたのか、三成は目を閉じたまま囁く。さすがに彼も疲れていたようで、声が別の意味で危うげだ。
「……貴様もだ、孫市。それを口外してみろ。雑賀荘を……必ずや潰して……」
「分かった。ではその元凶はここで絶とう」
「え、ちょっとちょっと! 三成様をどうする気なんですか! ってかその銃、何で抜いてるの!」
 殺される前に殺すつもりかと、左近が慌てて引き留めようとするものの、孫市にその気は微塵もない。短筒を腰に納め、徐(おもむ)ろに三成へと近づく。
「お前がこんな所でなく、ちゃんと陣に戻って休息を取るのなら、それが真実となるだろう。島、お前も手伝え」
「……余計な、事を」
「そうっすね! 俺も一仕事した後に、辞世の句なんて小難しい事考えたくもないですって」
 やる事を察した左近は、率先と三成の左腕を担ぐ。このまま戻れば見っともない姿を晒す事となるだろうが、道端で泥酔したように寝こけるよりはまだ良いだろう……。
「……ん?」
 右腕を担いだ時に、孫市はその異変に気がついた。
「この、匂いは……」
「……あぁ、やっぱり、酒(ささ)を召し上がっていたんすね」
「酒だと?」
 とうとう力尽きて寝息まで立てる三成の代わりに、左近が笑いながら答えてくれた。
「三成様って、本当に生真面目な人っしょ? だから寝酒をかませば良く眠れるって信じ込んじゃって……でもまぁ、色んな心労が重なってるから、眠れない日の方が多いんでしょうね。仕方ないっスよ」
「仕方ないで済ませるな……その状態でここまで来たのだぞ、このからすは」
「え、マジっすか……酔ったら寝る人なんだけどなぁ。そういや戦場で飲むの、見たこと無かったかも」
 左近は顔まで引きつらせている。あれで顔だけは素面のように振舞っていたのだから、化粧の効果は絶大である。だがそれと同時に、新しい危惧も湧き上がる――今までも、このようにやり過ごした事はあったに違いない。
「そうだな……皆が支えてくれるのを知ってはいるが、個の心の闇はいつだって、なかなか晴れないものだ」
 そしてあの会話もまた、人事不省の数歩手前の状態で行っていた事になろう。彼の言っていた事が真実かどうかは分からないが、疑いようもない事も一つくらいある。
「このからすの生真面目さは……狂気に値するものだ。主と慕うなら、真に堕ちる前に支えてやる事だな」
「大丈夫ですって。豊臣には、頼もしい人が大勢いますから。もちろん、この俺も!」
 明るく答えた左近に、孫市もまた、口元に笑みを浮かべる。


 個が個を支えあい、全となす……人はその繋がりこそ『絆』と呼ぶ事もある。
 それも知っているのだろうかと聞くのは、素面の時が良さそうだ。


「ここまで世話をかける奴ほど、客にしたくはないものだな……さて、どうするか」
「うん? どうしたんです?」
「……いいや。早く行くぞ」
 雑賀の頭領としては、こういう奴ほど厄介だ。良くない客は早く手を切った方が良いと、あの先代も言っていた。
 だがそんな道理が分かっていても、いつそれが迫るか知れたものでは無かったから、あの師はむざむざ殺される羽目になったのだ……同じ判断を迫られる事となった孫市にも、あまり心の余裕はない。
 しかし、それもやはり遅かったのだろう。首を傾げた左近にそう返しながら、孫市は素知らぬ顔で歩き出す。



 ……力なく垂れ下がっていたはずの手が、己の腕を掴んでいるのだ。今更この『穴』から抜けられる訳がない。



<了>



▼後書
 4になって最初にシブ公開した作品でした。まさか凶王と姐さんのCPにはまるとは思わなかったです。
 補足ですが、凶王は子持ちのブラック企業の若手NO.1、姐さんは凄腕派遣社員的な関係……がいいなぁなんて。
 凶王については、まぁ依存癖はあるだろうなと想ってた時期にこれを書いたのですが、後書き書いてる時はもう少しアレな人かなと見方が若干変わってきてるようです。
 その辺は別の機会で語りますが、そりゃまぁ姐さんもこうなるわなぁ……と。そんな旧設定での伊達夫婦以上に危うい関係が書く感じになりそうです。

 そのうちオフィスラブ的なものしたいねーなんてシブで言ってましたが、そうですね……戦場で、か……。(サイトでも自重しようか私)

2014/09/15

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