I falled from the sky, and I lost the light.
(底無しの沼に足を取られ、右の目の方へ泥が撥ねた)

I tried to return again, but I can't run away from the darkness.
(泥を落とそうと何度も目を擦ってみるものの、泥は一向に取れず見えないままだ。)

I cried in the outside, I distorted each time.
(この耐え切れぬ不運に涙するも、右の目はただただ沼のように濁るばかり。)

So, I have decided to live here.
(だからもう、嘆く事だけは止めにした。)



 茹だるような暑さの中、伊達政宗の意識はようやく午睡から浮上した。
 夕方までに執務を終えなければ、あの片倉小十郎の雷が夕立の如くやってくる。だが目蓋を揉んでみるものの、寝ぼけた目は一向に開いてくれない。
「Shit. こんな時に……」
 いつの間にやら天頂から西方へと下がった真夏の日差し、それに丁度照らされてしまった縁側で寝こけていたせいだろう。目まで焼き付いたようである。そのうち回復するだろうが、これではしばらく役立たずだ。
「Ah……こりゃもう、駄目だな」
 自室へと這って戻ってみる。やや暗い室内とはいえ、涼は全く取れやしない。むしろ風通しが悪いから余計に蒸し暑い。
「……おい、小十郎。そこにいるか?」
 試しに呼びかけてみるも、人の気配すら近くに無い。最近の小十郎といえば、客人として滞在している柴田勝家に畑仕事を手伝わせているらしい。あの本能寺の遠征から帰還した後、少しは積極的になった勝家であるが、畑の方に熱心になって貰っても困る……ようやく同盟相手として相応しい相手になったのに。
「……Shit. 誰もいないんかよ」
 魔王を下した後は、いよいよ打倒将軍である。そのためにまずは国力に富むべきだと進言した小十郎だが、国主の政宗に押し付けたのは、普段は家の重臣らが片付けるような庶事雑務という名の執務である。確かに国主としてやらねばならぬものもあるが、未だに馬で暴走したい年頃の男が喜んでやるものではない。
 ……だからこその昼寝であり、代償でもあるが。
「水桶……何処かに、あったか」
 汗を拭うための水桶くらいなら、近くにあったはずだ。手探りで見つけようとしてみるが、触れるのは午睡前に散らかした紙屑ばかりだ。
「You've got me(参ったな)……」
 呻くくらいの元気はあるが、こんな様では誰かの助けすら億劫である。井戸とて歩かねば届かない所にあるのだ。そもそも何も見えねば、歩く事も難しい。
「……Can not be helped.(仕方ねぇ) 寝直すか……」
「それでは喉も乾いてしまいますわ」
 と、そんな時である。涼風(すずか)のような声が、政宗の耳元をくすぐった。
「……お前、いつからそこに居た?」
 畳の上に寝そべった政宗の頬に、冷たい何か。布のようで、えらく湿っている……顔を拭いてくれるのなら良いが、口を塞いで窒息させる凶器にもなりかねないものらしい。だがすっかり干上がった政宗には、それに抵抗する気力もない。
「いつからと聞かれましても……ご自身がいつから午睡を始めたのか知ってまして?」
「Hum……昼餉を食った後、だったな」
「でしたら一刻もお眠りになりましたのね」
「そんなにか……って、まさかお前、その時から……」
「いいえ。私はつい先程、梵(ぼん)の失態を見つけましたから、水桶を持って改めて伺いましたの……人払いは一応済ませてありますわ」
「……Sorry, 不甲斐ねぇ旦那候補で悪かったな」
 政宗は頭を抱えて呻いたが、冷水に浸された布がその口を塞ぐ――否、涎まで拭ってくれようとしたらしい。この心地良い冷たさは、また睡郷へと戻りかけそうになるほどだ。
「この眼帯……少しの間だけ、外してもよろしくて?」
「……OK. 膝枕してくれたらな」
「まだ夫婦でもありませんのに」
「その予定で無ければ、眼帯にも触れさせねぇよ……お前なら良いって言ってるんだ」
「……それでは、失礼」
 身をずらした感触をみて、政宗も軽く頭を上げる。柔らかい膝枕に、ほっそりとした指先。此世のあらん限りの贅沢を詰め込んだような彼女に向けて、政宗はいつものCoolな笑みでなく、頬を緩ませた微笑を見せる。
「……で、今宵はいつまでいるんだ、愛(めご)?」
「年頃の貴方が獣になる前には帰りますわ……私だけでなく、梵も母上様に怒られてしまいましてよ」
「Shit」
 これ見よがしに舌打ちしてみせるも、大胆な手は眼帯の紐をさっさと解いてしまう。伊達家最大の禁忌――正しく逆鱗とも言うべきそれに触れようとする彼女の手を、政宗は反射的に握ってしまった。
「……まだ、怖いのかしら?」
「そうでなければ、部屋に引きこもろうとはしねぇよ」
「けれど、冷やさないと日焼けで肌を痛めてしまいましてよ。そうしたらしばらく外にも出れなくなりますわね……」
「……お前は、昔からそうだよな」
 恐怖はあれど、この彼女は『気にするな』とばかりに飄々と吐かすのだ。それが不安を解消するための方便だとは知りつつも、やはり怖いものは怖いのだ。
「けど、そこまで言う奴ほど信頼出来ちまうんだから、俺も大概だな……」
「えぇ。ですから、あまり人を気安く信用しないように……あの柴田という方、魔王の尖兵なのでしょう? 母上様がえらく気にかけておいででしたわ」
「魔王から将軍に乗り換えた兄への報復を狙ってるかもしんねぇって? Oh, no(そりゃねぇよ)……だってアイツは魔王にも将軍にも歯向かった奴だ。そんな義理を今更果たす訳がねぇ」
「それならば結構ですけれど……梵も上洛を目指すのなら、もう少し上手く立ち回った方がよろしくてよ。豊臣の左腕が如何にも面倒そうなお方と聞き及んでおりますし」
「All right. 『王』に成るためにも、俺とてこの名に相応しい政(まつりごと)を覚える頃合いだ。お前の『目』、期待しているぜ」
「女の私がしゃしゃり出るなんて、鬼小十郎に聞かれたらどうなる事やら……それに、まずは貴方の目を開かせる方が先ですわ」
 政宗がその手を離してやれば、問答無用に焼けた目蓋を拭われる。早速火傷の痛みすら生じるが、すぐに心地良さに覆われる。
「……右の方は、どうします?」
「そっちもやってくれ」
 力み過ぎた肩も、ゆっくりと下がる。また眠気に誘われるが、他人に顔を拭われる心地も、意外と悪くはない。
「Ah……そろそろ、いけるかな」
「あまり無理をするのはよろしくないですわ」
「……そうでも、ねぇよ」
 ゆっくりと目蓋を押し開ければ、また焼けつくような痛み。だがそれでも我慢出来たのは、早く彼女の顔を見たかったからだ。
「Marvelous(なんてこった)……お前は、見る度に可愛くなってきているな」
「綺麗、ではなくて?」
「頑なな所は綺麗だったかもしれねぇけど……そこまで解れちまえば、可愛げも増すってもんだ。お前は元々童顔だしな」
 少し腕を伸ばせば、穏やかな笑顔に届くだろう。しかし白磁の頬に触れようとしたら、華奢な手に掴まれた。
「梵は逞しくなりましたわ。刀を六振りも腰に下げていれば、自然と足腰も鍛えられるだけでなく、膂力も相当なものになっていますでしょうね」
「抱きつかれたら最後、って事か?」
「それはもう、蛇の如く」
「No! 俺は竜王だ……そこん所は間違うなよ。You see(分かったか)?」
「ただの喩え話ですのに。そういえば、その柴田とやらは、妖(あやかし)に詳しいと評判でしたわね」
 片手で三振りもの刀を持つせいで歪な形となった手を、彼女は愛おしげに頬ずりする。あぁ、そういう仕草もまた可愛らしいものだ……醜い目を晒しているのは知っていても、政宗の顔は緩むばかりだ。
「Yes,(あぁ、そうだぜ)……そういや、お前ん所の家の話はまだしてなかったな。アイツ、東夷(あずまえびす)の話にも興味持ってるんだ。お前の口から話してやれよ」
「それは構いませんけれど……私、ここまで無断で来ましたの。片倉に知られたら、また怒られてしまいましてよ」
「No problem.(問題ねぇよ) 俺が何とかしてやるからさ」
「……ほう、政宗様が代わりに言い訳をすると?」
 ……実はそれほど大した度胸もなく言っただけだが、すぐにそれが試されるとは、政宗も思ってみなかった事である。
「では、執務も放置しておられた言い訳と共にお聞かせ願いましょうか」
「あらあら。散々午睡を楽しんだのでしょう? 竜王と名乗るなら、そこは潔く極めるのが粋(いき)というものでしてよ」
 彼女の膝に突っ伏して二度寝を極めこもうと思った政宗であったが、その彼女――愛の一言で、全ての算段がものの見事に打ち砕かれてしまった。


「坂上の将軍の裔(すえ)を娶るとは。さすがは竜王を名乗るだけの事はある」
「お前がそう言うのなら、中央の奴らもそう思ってくれる事か?」
「今ならば、あの将軍も注目するだろう……同じ征夷(えびすうち)の将軍を戴くのだからな」
 あまり思い出したくなさそうに、彼はつぶやく――柴田勝家は伊達の客将でもあるが、今は片倉小十郎と共に水田の護衛に精を出している。先の豊臣の反撃にも一役買っているだけあって、伊達家の者らの信頼も厚い。
 しかしそれ以上に怪談の類を好むという奇特な輩でもあるからに、老人相手にも打ってつけである。たまに武芸の稽古にも付き合ってはくれるが、その態度の差は歴然としたものだ。当初より雰囲気が明るくなっただけ、まだ良いのかもしれないが。
「しかしお二方共に年頃なのだろう? 何故祝言を挙げぬのだ?」
「Ah……まぁ、色々あってな。今は最上の母上に預かって貰ってるんだ」
「最上……足利に与した狐か。いや、待て、そうなると……」
「ここだけの話にしときてぇが、奥州の奴らはみんな知ってるぜ。アイツはアレでも俺の叔父にあたるんだ」
「……趣向は似てるように思えるが、ふむ」
「おい、そんな意味ありげ言うんじゃねぇよ」
 納得の色を見せるから、余計に腹が立つ。相槌を打った勝家を、政宗は上座から睨みつける。
 少しは風通しの良い客室に場所を移したものの、やはり暑いものは暑い。しかし扇子で扇いでくれる愛が、その装いを涼しげな花色に改めたお陰で、目の保養だけは十全である。
 暑さからもようやく凌ぐ事が出来た政宗は、それでも火傷寸前だった目蓋を揉みながら呟いた。
「あの狐は昔からあんな奴だった。家督相続の際にも父親ともえらい揉めたらしくてな、それを仲裁してきたのが妹である、俺の母上だったって訳だ……まぁ父上の方はその親子喧嘩を盛り上げる役だったがな」
「父君は穏やかだと聞いていたが、そういう事をしていたのか?」
「これも婿の誼ってやつかもしんねぇが、父上は猫かぶりが上手い御仁だったのさ。俺にもそんな器量があれば、もう少し早く奥州を収められたかもしんねぇがな」
「では……奥州探題も、そのうち簒奪しようと?」
「将軍からの役職なんてこの際どうでもいい。そのうち、直々にぶん殴るために上洛するからな」
「問題は、その上洛なのだが……政宗様、吹聴するならその算段をつけてからにしてくだされ」
 手ずから冷茶を椀に注ぐ小十郎は、相変わらず厳しい目で忠言する。
「京へ上るに障害となるのは、まずは上杉……武田も当然出てくるでございましょう。そうすれば政宗様のこと、真田に気を取られてしまうかもしれませぬ。さらにそれを越えたとしても京極浅井に第五天が控えておりますれば、必然的に魔王の残党も貴方様の首を狙う事にもなりかねますまい。また、その道中での友軍とて宛には出来ませぬぞ。三河の徳川なら共闘しようと誘うかもしれませんが、そうなればあの左腕の要らぬ敵意を買うでしょう」
 さすがは伊達の軍師、竜の右目である。こんな乾いた所でも、軍事に関する舌の回り具合は絶好調だ。
 しかしその一方で冷茶を口に含ませながらも、政宗の声はたどたどしいものである……情勢を知らない訳では無かったが、小十郎が挙げた名は片手では数えきれない。それらを上洛までに五体満足で越えられるかと考えてみれば、たちまち自信も無くなるものだ。
「……だったら前田はどうだ? 今はあの色男が大将なんだろ?」
「前田慶次の事を言うのなら、それこそ無駄だ。軍神は彼こそ将軍の傍へ置こうと企んでいるらしい……なんであれ修羅の道であるのは、伊達氏も覚悟の上だろう?」
 勝家の提言まで小十郎寄りだから、政宗は渋い顔をするばかりだ。それを見て、愛は小首を傾げた。
「男衆は揃いも揃って、戦う事しか考えられませんのね……竜王と名乗るからに、そうせざるを得なくなっているだけですのに」
「愛、お前なら良い方法があるって言うのか?」
 むしろその地位が邪魔だという物言いだ。しかし不満顔の政宗に対して、勝家の方は好奇の目を向けていた。
「女がてらそう申すとは、姫はなかなかの目をお持ちのようだ。私からもその術策を乞いたい」
「策……というよりも、梵が折れてくれればそれで済む話でもありますけれど」
「折れるって、どういう意味でだよ」
 嫌な予感しかしないから、防衛のつもりで政宗は尋ねてみる。すると愛は先程の可愛らしい顔から、ニタリと気味悪い笑みを創りだした。
「片倉の言通りであれば、上杉と武田、京極浅井と織田、そして徳川と豊臣……それぞれ敵対しておられますでしょう? でしたら、わざと戦をけしかけて、互いに戦わせるのですわ。後はその隙に『蛇のごとく』、その細道を駆け抜ければ良いのですわ……それが最速、でしょうね」
「Oh……まさか、今回の来訪もそういう手段を使ってきたのか?」
 とんでもない悪知恵であるが、突き進めばそれで良いという政宗の思い込みよりも勝算のあるやり方だ。小十郎も似たような事を思ってか、口元が引きつらしながら呻く。
「そ、そのような振る舞いは……お東様から、矯正されたとお伺いしましたが……」
「あら、私がまだまだお転婆な小娘だからそう言うとでも思って? 無謀にも突撃して軍神に返り討ちされたいのなら、どうぞご勝手に」
 扇子を口元に当てながら、愛はクスクスと可憐な笑みをこぼす。
「東夷のやり方では無いのでしょうけれど、私は西戎(にしえびす)の血をも受けておりますのよ……その武力を知るからこそ、やり方を考えなければ戦には勝てるとは思えませんの」
「正しくその通りだ。いくら弓(技術)に秀でても、強固な甲冑に覆われた者に対してはどうにもならない。なれば、その隙を突く他がない」
 同じく西方から来た勝家も納得する。用兵に優れたこの男もまた、己の手の内を冷静に見定める種のようだ。あまり認めたくないが、政宗は胸中で納得せざるを得なかった――かつて、その圧倒的な武力で押し潰されそうになった経験があるからこそだ。
「……だとしたら、一度竜王の看板を下げろと吐かすか?」
「別にそこまで言っておりませんし、第一貴方がそう嘯いても、周りは強がりとしか思っていないのでしょう……それなら掲げたままでも大して変わりやしませんわ」
「お前は他人の致命的な所ばかり突くくせに、俺には隙を突くしか方法がねぇんかよ……Shit! 酷い言われようだぜ」
「あら。梵は私の言うことを、本当に真に受けておりましたの?」
 とうとう怒気をも含ませた政宗だったが、愛はそれを心底不思議そうに見つめた。
「私の悪知恵が本当に通るのなら、田村の父上様は私を貴方にくれるような真似をせずに、婿取りをしてましてよ」
「……確かにそれも道理だな。この乱世はそこまで甘くない。逆に姫の言う事が出来れば、伊達とて奥州を取る事すら容易くいかなかっただろう」
 その真意を察したか――あるいはもっと深い所まで理解が達したか。小十郎は嘲笑う愛へと向き直る。
「この奥州において圧倒的な武力を持つ家こそ、この伊達だ。周りの奴らが如何な策略を企てようとも、簡単に蹴散らしてきた。たった二回の例外を除いては、な……とはいえ、本当に効果的だったのは最初の一度だけだったがな」
「えぇ。その二度と無い機会を『わざと逃した』この私が申し上げましてよ……『他人の言う事に右往左往しているのなら、王なんて名乗りはやめろ』、と。ちなみにこれは母上様からの言伝ですわ」
「Shit……母上は、そこまで見抜いてたってか。相変わらず元気で逆に安心したぜ」
 痛恨の一撃を食らった気分だが、その痛みはすぐに和らいだ。政宗の顔にも、自然と笑みがこぼれた。

 ――最上の母は、政宗にとっては大きい人である。
 男に容易く屈しようとしなかったからこそ、塞ぎこんでばかりの長男を国主に推そうとしなかった。だが父はそれでもと政宗を後継に選び、凶弾に倒れるまで我が道を突き進んだ。夫婦仲は悪くなかったから、母はそういう父を愛していたのかもしれない。
 そして母は、夫が死に、後を継いだ嫡男の暴政を疎んじて最上に帰った。そのうち、奥州の荒くれ共を御し、見事に頂きへと昇った彼を家の者らが讃えてくれるようになっても、母は戻ろうともしない。
 荒くれ共の言葉を借りれば、自ら去った者の『けじめ』とでも言うべきか。

「それなら最上の抑えには母上が効くかもな。留守居も一応置いておかねぇと、あの狐、青葉を押えにかかるかもしんねぇし」
「それは私めにご命じ頂ければ良いものを」
 奥州筆頭の名乗りを譲られた小十郎が平伏しようとしたが、政宗は頭を振った。
「No. お前は伊達軍に欠かせない存在だ。仕方ねぇから、遠征中は特別にお前の提言を全部聞いてやるよ」
「全く、普段もそうであれば良いものを……なれば必ずや、政宗様に最善の提言を致しましょう」
 またもや我儘な事を吐かす主に、小十郎は律儀に頭だけを下げた。やはりこの彼は頼もしいと、政宗は満足そうに笑った。
「Good(上出来だ)! で、お前はどうする勝家。折角だからこのまま北之庄に帰っても良いんだぞ」
 そして今度は勝家の方へと向く。だが彼は彼で、思う所があったようである。その怜悧な眼差しはいつになく険しいものだった。
「心遣いはありがたいが、今回の遠征の目的が将軍であるのなら、私もそれに加えて頂きたいのだ……一宿一飯の恩義もあるゆえ、今度は伊達の者らを北之庄へ案内しよう」
「そいつは願ってもない話だ。休みなしの上洛じゃさすがにキツいだろ」
「柴田……恩に着る」
 政宗だけでなく、小十郎も頭を下げる。しかしその様子を見て、また愛が物言いたそうに眉を顰める。
 ――何も準備していないというのに、上洛をしたがるだけだったのか、と。全くその通りだから、政宗も言い訳の余地もない。
「……俺にとって、これがNothing out of the ordinary(日常茶飯事)ってやつさ。最初から決まった道を駆けるだけじゃつまらねぇだろ?」
「それはとうの昔に気づいてましてよ……貴方は右目を失くしても、悪路ばかりを駆ける御仁でしたもの。けれど、深い泥濘(ぬかるみ)から起つ事の出来る漢は稀少でしてよ」
 愛の華奢な指、そのうちの中指と親指が折られる――それが、右目の眼帯へと近づいてゆく。
「梵……次の泥濘に嵌る前に空へ翔ぶ算段は、本当につきまして? 王と成る以外の道を絶つつもりであれば、迂回は出来なくてよ」
 そして、パチンと。
 かつての泥濘の跡――失われた右目を覆う眼帯を指で弾く。
 何をするのだと小十郎が腰を上げるも、政宗は微動だにしなかった。
 勿論、この見かけによらず大胆な彼女のやる事は察してもいたのだ。しかしそれを咎めようとは、微塵も思えない。
「Ha! お前にしちゃ、珍しく弱音吐くじゃねぇか」
 弾いて宙に浮いた手を掴んでやれば、愛の肩が明らかに大きく揺らいだ。小十郎と勝家はその背しか見えていないから、対峙する政宗だけは見る事が出来た――いつも強気な彼女の口元が、みっともなく戦慄く様を。
「俺の答えを聞かねぇと不安だったか、愛? だから遠征の直前に忍んで来たって訳か……俺がお前に相応しい漢になったら迎えに行くって約束したじゃねぇか」
「こんな所でそう言うなんて……昔の口約束が必ずしも果たされるなんて、思ってませんわよ」
 さすがに人前だったか、愛は苦い顔を伏せる。後ろを見やれば、小十郎と勝家はあさっての方を向いていた。空気を読んでくれるくらいは大人な二人である。
 どうやら童子(ガキ)であるのは己だけのようだ……そして事実、童子だからこそ、政宗はそれを恥と思う余裕すら無かった。
「心配する必要はねぇさ。お前を差し置いて他の女に現を抜かすほど、俺は薄情じゃねぇぞ」
「そういう心配をしているのではありませんわ……それに私は、貴方にそこまで言うほどの女でもありませんもの」
「Oh……そういう慎み深さもまた良いもんだな。一刻も早く夫として愛でてぇもんだぜ」
「ぼ、梵! 人前でのお戯れは程々になさいまし!」
 とうとう耐え切れずに悲鳴を上げた愛だったが、政宗は快活に笑うだけ。小十郎はもうついていけないと呻くしかなかったようだ。
「……政宗様、祝言は遠征前になさいますか?」
「あ、貴方まで……私は、そのつもりで来た訳では……!」
「あぁ、そいつは俺が将軍を蹴散らしてからだ。やるなら気軽でも派手にやりたいんだ……だからな、愛。もう少しだけ待っててくれねぇか?」
 震える愛の肩をなだめるように撫でてやるが、政宗は声音低く囁いた。
「俺はこの悪路でも真っ直ぐ進むつもりだ……母上にもそう伝えてくれ。もちろん、こんな俺が嫌だったら三春に帰っても構わねぇ。十分な戦支度をして、俺の帰還を待つ事だな」
「……出過ぎた事を」
「No, 勘違いするなよ。お前が言いたい事は、俺の遠征を反対する奴の代弁にも等しいんだ。国主ならば、それを聞く義務だってあるのは分かってるつもりだ……でも、俺はこの道を進む事を決めたんだ」
 顔まで険しくしたつもりは無かったが、竦んでしまった愛のため、政宗は無理矢理笑みを作る。
「天下を乱した将軍は、俺が必ず降してやる。ついでに織田(魔王)も、豊臣(覇王)もだ。そこまでやったら、お前だって嫌が応なく俺を認めてくれるだろ?」
「……そこまでしてしまわれたら、私は白無垢で出迎えるしかありませんわね」
「当然さ。昔みたいに、立烏帽子(たちえぼし)で待ってるんじゃねぇぞ……いや、俺以外の男が来たらそれで蹴散らしてくれると有難いもんだがな」
 つい昔を思いだしてしまった政宗に、愛はさらに肩を竦めるだけだ――この彼女の剣の腕もまた、六年前の邂逅の時点で相当なものである。同じく武勇に優れた母に預けたがため、それが何処まで達したか今でも知るのが恐ろしいくらいだ。
 しかし男勝りとも言えないのは、やはり彼女自身は慎み深く、また情が深いからであろう。だからこそ、小十郎を連れて行くと決めた今、この彼女にこそ奥州の留守居を任せたいものである。
「何を今更……私自身は、貴方を送るためにここへ来ましたのよ。母上様は止めたがっておいででしたけれど」
 そんな事を思っていれば、愛は苦笑いしながら顔を上げた。漏れた声にすら、自嘲が含まれていた。
「もう、私如きの言葉で止められる梵ではありませんもの。天が乱れている今、貴方は貴方の道をお進みになれば良いのですわ。私の事なぞ、どうぞお構いなく」
「No, そこまで言うなよ。もしもお前に危険があれば……」
「無論、貴方以外にこの身を触れさせやしませんわ……『これ』に誓って、必ずや」
 そうして、己の胸に――手妻のような鮮やかな手つきで、いつの間にやら抜かれていた匕首をかざしながら。
「Oh, my god(冗談言うな)……それ、母上に言われてやってるだろ」
 そこまで覚悟を決めていたのかと絶句しかける政宗であったが、少し冷静になって考えてみれば、それは彼女のやり方では無い。しかしそう指摘されても、彼女の表情は崩れなかった。
「少し離れていたのに、梵は私の事を良くご存知ですわね……確かに『こういう風にして止めれば考えなおしてくれるはず』、とは言われておりましたわ」
「……だったら、何でそこまでやったんだ?」
「あら。もしかして『愛ならこれで応戦するだろうに』、とでも思ってまして?」
「……Sorry(悪いな)」
 この彼女は、姑とは違う意図で己の覚悟を伝えたつもりだったのだ。若干視線をずらした政宗に、愛は笑みを取り繕いながら匕首を納める。
「……なれば、もし貴方が将軍に屈してしまったら、私が直々に止めを差しに参りますわ。覚悟なさいましね?」
「……All right(あぁ、覚悟しておくさ)」
 その一言こそ止めのようなものであったが、激励としては十分なものである……強気に言い切ったがやはり匕首を握る手を震わせていた愛に、政宗は安心させるように力強い笑みを浮かべてみせた。


「……何だか、えらいものを見せてしまったものだな」
「いいや、気にする事ではない。むしろ面白い所に居合わす事が出来て僥倖だ」
 ……いや、あれは伊達の恥部にも等しいものだから直視するな。
 ようやく部屋を辞した小十郎であったが、一緒に出た勝家は何だか名残惜しそうな顔までしている。だからそう言ってやりたかったが、珍しく勝家の方が先んじて声を上げた。
「しかし片倉氏……不躾だが、私から忠言する。今回の遠征を考えなおした方が良い」
「アレをそのまま真に受けたのは、お前もか? いや、お前はそういう奴だったな……」
「それに関しては、道を外さぬと?」
「西で生まれ育ったお前とて、この滞在で良く知ってるはずだろ。奥州の道が悪路ばかりなのはな」
 苦笑しながら、小十郎は己の屋敷へと案内する。さすがにこの暑さでは、農作業も出来やしない。
「政宗様……かつての梵天丸は、右目を失ってから闇雲な振る舞いをする童子に成ってしまわれた。そんな折に剣術指南役となった俺は、その闇からあの方を引き上げた。まぁ、これも今から思えば僥倖に過ぎねぇんだが」
 落ち込んだ嫡男を見て嘲笑う重臣を殴りつけた小十郎……それを見た政宗は、この彼ならと信頼を寄せるようになったという。とはいえ小十郎も、下心こそ確かに無かったが、自分まで一緒に馬鹿にされるようで気に入らなかった理由もあるのだ。
 似たもの同士といえば、そうである。あの幼い童子は、決して平坦で無い道に来てしまった迷い子でもあった。だから同じ道を先に歩んでいた己が導かねばならないと、固く心に誓ったのだ。そしてその決意は政宗も踏襲したようで、この勝家を見事に明るい方へと導いた。
「何処の誰だって、その闇から抜けだすのは苦労するものだ。だから政宗様はご自身がそうされたように、闇から抜け出せない者らに光を与えようと考えた。荒くれ共とつるむようになったのも、それに沿うものだろう。しかしそれを危惧する者も当然居る訳だ……輝宗様もまた、そのお一人であった」
「輝宗……先代の事か」
「あぁ。闇へ手をのばそうとすれば、またその闇に堕ちる危険もあったからな。特にあの方は身を乗り出そうとまでする始末。それはテメェでも分かるな?」
「確かに……あの有り様は見ていて肝が冷える。だが身を乗り出そうとするのは、独眼だからこそだろう。良く見えぬから、と」
「かもしれねぇがな。で、そういう危うげな頃に引き合わされたのが、あの姫だった。輝宗様にしてみれば、政宗様の御手を繋ぐ者として選んだのだろうな」
 八年前、それはもう遠き昔のように思える。小十郎はようやく着いた屋敷の門を押し開けて、熱心に聞き入る勝家を招く。
「だがあの姫こそ、最も深い闇に囚われた者だったのだ……まるで物語のような展開だろう? 本当に、巻き込まれた方は堪ったもんじゃなかったぜ」
「物語、か。私にはとても興味深い怪談のように聞こえたがな」
「……どうやらテメェも連想したみてぇだな。むしろ『あっち』の方が本場だとも聞いているが」
「そうだ。鈴鹿(すずか)の山に住む鬼女……その名は鈴鹿御前。東北の鬼の王、悪路(あくろ)王と天下を乱す算段を企てた強者だと伝え聞くが、確かに実在していればあのような立ち振舞いであっただろう……あれを隠していたとは、貴方方も人が悪い」
「俺らにとっては秘め事にしといておきたかったんだ……何であれ、テメェは西の武将だ。怪談だけならまだしも、奥州の詳細な情勢まで漏らしたくはねぇ」
 それこそ本音だからと、小十郎は勝家を睨みつける。今でこそ己の屋敷の客人とはいえ、少し前までは伊達の捕虜でもあったのだ。北之庄に帰還すれば、織田の猛将にも戻るはずである。
 しかし勝家の目は、それでも澄んでいた……少し前までの濁った沼のようではなかったが、山奥に湛える泉のように何かを映し出すそれもまた、人を寄せ付けぬ冷たさをも合わせ持つ。
「それは先程の……伊達を窮地に陥れたという話にも関連すると?」
「そうだ。顛末としてはそのまんま……いや、ある意味で覆されたか。坂上の末裔こそ彼女の実家の田村家だ。あれも実際の所は自称なんだが、あの彼女は坂上の方を裏切ったのさ」
 鈴鹿御前の伝承については、愛の輿入れが決まった頃に、政宗の父である輝宗から聞かされた――鈴鹿御前は西の鈴鹿山にて東夷の悪路王と天下の転覆を企てたというが、己を討つべく遠征したかつての将軍、坂上田村麻呂と戦い、その最中に惚れ込んでしまったらしい。それ以来、彼女は悪路王を裏切り、共に鬼らを討伐し、晴れて夫婦になったという。
 だからこそ東夷の俺達に何をしでかすか分からないから用心しておくんだよ、と。冗談混じりに言ってくれた輝宗である。外交戦を積極的にこなしていた彼は、その凶兆に気づいていたようだ。
「彼女はな、当初は他の豪族(西戎)らと共に伊達(東夷)を潰そうと企んだ田村(坂上)の刺客として、輿入れしようとしたんだ。伊達はこの奥州じゃ向かう所敵なしだからな。勿論俺らだって厄介な敵を身内に抱え込む羽目になるかもしれない事も予測はしていたんだ……でも嫁入り前にそれを知った政宗様は、あえて敵地に飛び込んでいったのさ。真意を確かめるってな」
「それが一度目の窮地、と?」
「二度と無い機会のはずだっただろうさ、向こうにとってはな……ただ向こうの誤算は、あのお二方の出会いがもっと早かった事にある。伝承とは違って、彼女は悪路王(政宗)の顔を見知っていたんだ」
 鈴鹿御前は悪路王の顔を知らぬまま、天下転覆の算段を企て、裏切ったと聞く。文でのやりとりでもしていたのだろうか……そんな妄想をしてみるものの、心は未だにざわついている。
「俺もそれを知ったのは、全てが終わった後だった。十一年前、政宗様が右目を失われた頃に度々城に出られていたのは誰もが周知していたが、何処に行っていたのかは終に知らず仕舞いだ。ただ俺も今更知るつもりはねぇさ。逢引だって言うのなら、それ以上聞き出す方が野暮というものだ」
「だとすれば、その頃から二人で天下をとろうと企てていたのかもしれないな」
「なるほど、それこそ正しく伝承の通りか……童子(ガキ)のくせに、とんでもない事をしでかしたものだ」
 勝家の微笑につられて、小十郎も苦笑を漏らす。今から思えば、それは子供達の戯れで済む話である。
 ……しかしそれはそれで、ただの怪談よりも肝が冷えるものだ。

 輝宗が愛を嫁にと見込んだのも十一年前である。そしてまだ二人とも幼すぎるから、三年経ったら輿入れをするという取り決めも早速成されたようだ。
 しかしその一方で、別の話も進んでいた――奥州の豪族らは伊達の台頭が気に入らず、輿入れする予定の愛に、政宗暗殺の刺客になるよう命じたのだ。
 その頃から、愛は武芸に優れた姫として、巷では専ら有名であった。それほどの強者であれば、いつだって政宗を簡単に殺せたはずである。
 なのに結局八年前の輿入れまで、愛は何もしなかった。政宗が白状した事を信じれば、『アイツとのDate(逢引)は満月の下での他愛ない会話か、アイツの剣舞の見物だった』と……剣舞では尚の事危うかったというのに。

「だからこそ、尚更本人に聞かねばならないと思われたのだろうな。結局、政宗様は田村に押しかけて、そこで姫と一戦交える事になったらしい……で、そこで辛勝した政宗様は、そのまま姫を伊達に連れ帰ったんだ」
「伊達氏の方が、勝ったのか」
「あぁ、一応はな。でも政宗様の傷を診た薬師によれば、明らかに急所を外されていたそうだ。あの姫は、わざと負けたんだ」
「……そうか。今の鈴鹿御前は、悪路王に惚れ込んでしまったのだな」
「おい、これは笑い事じゃねぇぞ」
 これは面白いと笑う勝家を殴りつけたくなったが、その反応はあの輝宗も同じであったから、手が出しづらい。

 その一連の顛末を聞いた重臣らは、早く始末した方が良いと進言したが、輝宗はそれを笑って許してしまった。しかもその場で豪族らに対する報復の采配を、政宗に全て任せたのだ。
 政宗の快進撃は、恐らくそこから始まったと言えよう。愛に暗殺を命じた豪族らを蹴散らし、見事に奥州を制圧寸前にまで推し進めてしまった。この結果にはさすがの重臣らも黙る他がなく、それどころか少しずつ政宗を認める声も上がり始めた。
 だがそんな矢先に、第二の窮地たる悲劇が起こってしまった。政宗に負けた豪族が、最後のあがきとばかりに輝宗を誘拐したのだ。その一報を聞いた政宗は、若い故に合理的だが最も過酷な方法を選んだ。
 父諸共惨殺する事で被害を最小限に押え、その悲劇に鼓舞された兵を率いて報復を仕掛ける……本当はやりたくなかっただろうが、その策略を政宗に授けたものこそ、死地にいた輝宗本人である。それを父の最後の願いと、政宗は聞き入れてしまったのだ。

「……そうだ、あの方は正しく悪路ばかりを選んで駆けてきた。その道が本当に正しいのか、吟味する時間も余裕も無かっただろうさ。そしてそういう奴だからと、お東様は戒めのつもりであの姫を最上へ連れて行ってしまわれたのだろう。あのままでは今度こそ取り返しがつかなくなるからな」
「祝言を挙げられないのも、家中でも未だに信用ならない姫だからか……それは勿体無い話だ」
 勿体無いと称する勝家の心象は理解出来なくもないが、彼女を良く知る者としては曖昧な表情をするしかない。小十郎はそのついでに補足してやった。
「政宗様もそうだが、姫も姫であの通りとんでもないお転婆だ。ただ姫には政宗様にはない才覚がある。一応、家中ではそれも認めてくれる者もいるんだが、当の政宗様が意外と一途な方だったからな。さっきも聞いただろ? 『お前に相応しい男になったら迎えに行く』って」
「そうか。伊達氏はどちらかと言えば硬派な方であったな……まるであの男のように」
「あの男?」
「いや、何でもない」
 何だか苦い顔をしている勝家であったが、小十郎もそこまで聞くほど野暮ではない。勝家が話を変えるために口を開くまで、招いた客室で再び茶の支度に徹する。
「……片倉氏。秘め事を聞いたからには、こちらからも一つ明かそう。私はあの将軍に拝謁賜った事がある」
「ほう。将軍を知っているような口ぶりをしていたのは、そういう訳か」
 いざ口に出したのは、小十郎の予想の斜め上を行くものである。だが勝家の声に抑揚はない。
「将軍はただ、天下が荒ぶる事を楽しんでいる。まるで物語に波乱という抑揚がなければつまらないとでも思われているのだろう。そのような方に、今更東夷を討つ気は無いはずだ」
「それはそれで朗報だが、さすがに上洛までは許しちゃくれねぇだろ」
「いや、それも断言は出来ない。あの方は誰であっても御下へ招いてくださる。この私でさえ、な」
「なるほどな。道中とて、将軍の味方であれば見て見ぬふりをしてくれるかもしんねぇって訳か……でも、あの場でそれを言わなかったのはどうしてなんだ?」
 先程の軍議じみたもので提案するには良い材料だっただろうに。だがそう聞いた小十郎に、勝家は首を傾げてみせる。
「では片倉氏、それを聞いたらあの伊達氏はどう考えると思われる……私が思うに、屈辱しか浮かばぬだろう」
「……悪路ばかりを選ばされてきた身としては、か。確かにそうだな」
 政宗としては、それこそ舐められた態度だと思うはずである。己の武勇を見せる事すら出来ず、ただ上からの恵みを受けるだけの遠征では、伊達の名が廃るというものだ。それは戴けない話だ。
「東夷とて、夷(てき)という烙印こそ押されたが、東で生きる者としての矜持を守って弓引いてきたのだろう。この地に伝わる土蜘蛛や大獄丸の話を聞いて、私も心底感服したものだ。聞かせてくれた者らの顔は、武将にも劣らず誇り高い……勘違いされては困るが、その伝承が西の者らに対する東夷の武勇談である事も、私は心得ているつもりだ」
「そうか。ただの怪談好きじゃなかったら、武将なんてやってねぇな」
 どの地域でもそうだろうが、そういった怪談や伝承の類は、自然現象や時の権力者への反逆を偶像化したものである……というのは神職の家に生まれた小十郎なら、昔から馴染みのある常識だ。かつての英雄が神格化されて祀られる事も多いからだ。
 この男の用兵の巧みさは、恐らくそういう伝承を聞く事で、そこに住む者らの風土や気性を無意識ながらも得ているからかもしれない……邪推は深まるばかりだが、やはり織田の武将をやるだけの器はあると感心してしまうものだ。
 ――いや、きっとそれは意識してやってるだろう。勝家の口元が、意味有りげに釣り上がる。
「そういう事だ。あの姫も坂上から代を重ねているゆえ、東夷の血が濃いのだろう。鈴鹿御前の立烏帽子姿なら、きっと私にも見せてくれるはずだ……」
「やめておけ。あの姫の腕は本物だ。一歩間違えれば殺されるぞ」
「冗談だ。伝承通り、三振りの妖刀を所持しておられたら、私とて分が悪い……いやまさか、本当に持っておられるのか?」
「妖刀かどうかは知らねぇが、政宗様と対峙した時は、古い型の剣を三振りも腰に下げるほど意気込んでおられたと聞いたな」
「……もしや、伊達氏が六振りもの刀を操るようになったのは」
「それ以上は言うな。考えたくもねぇ」
 考えてみれば、あれやこれやが繋がってくるから、昔の思い出を掘り返す事は良くないものだ。
 だがそのお陰で得たものもある。勝家は出された茶で舌を湿らせてから、満足そうに言った。
「伊達氏は落ち込んでいた私に手を差し伸べて、光ある方へと引き上げてくれた。そういう事が出来る人間は、同じ境遇に陥った者だけだろう。そうでなければ、力加減も分からないからな」
 その『引き上げる』時に、政宗は勝家の侮蔑の言葉を投げかけ、わざと怒らせようとしたのだ。本当に力加減を知っているのかは怪しいものだが、勝家の顔の色に悪いものは見当たらない。
「とはいえ、伊達氏は少々不器量な所もあるように思える。そこが不甲斐ないというのなら、出立までに将軍についてもう少し知るべきだ……ただ倒すだけでは、将軍を降したとは言えないだろう」
「……あの将軍にも、同じ闇があると?」
「この東(地)で生きようとした者に、西(天)で生きようとする者らが持つ苦労は元より計り知れないものだ。そして伊達氏は片目まで失われているから、光りあふれる所は逆に苦痛となっているかもしれない。他の者らと同じものが見れない苦しみは、共有するには難しいものだ……それでもそうしようとした愚者も、紛れも無く存在するのだがな」
 まるで将軍の事だけでなく、『他の誰か』の事について言っているようにも見えるが、勝家の口はまだ止まらない。
「伊達氏はもはや、平坦な道を駆ける事すら疎んじておられるように見える。つまらないから、と。だとしたら、我らもその悪路を突き進む覚悟をしなければならない。貴方であれば、もう決まっているのだろうが」
「当然だ。でも、それはテメェも同じだろ……俺らよりもとんでもない道を進んできた奴に、今更覚悟決めろなんて事は言わねぇよ」
 楽な方法も取れず、出立前から八方塞がりにもなりかけているのは間違いない。
 だがそれでも希望が持てるのは、その先頭に立つ者が真に信じられるからであろう。その事に誇りが持てる己に歓喜すら覚えながら、小十郎は同じく笑う勝家と顔を見合わせた。


「で、結局お前はどうやってここまで来たんだよ」
「馬ですわ。母上様に同乗させてもらいましたの」
「同乗か……って、Stop! だとすれば……」
「えぇ。母上様は城の者に挨拶をしてから、父上様の墓参りに行くと言っておりましたわ」
 どうせなら最上まで送り届けようと思いきや、愛は重要な事実を何気なく出してくれた……なんて事だ。
 愕然とする政宗に対して、しかし愛は未だに余裕である。
「母上様は、最初から貴方に会うつもりも無さそうですわ。それでもお会いしたいというのなら、お取次ぎしますけれど」
「……取次も何も、ここで待ってれば会えるんじゃねぇのか?」
「さぁ。母上様は梵のように、頑固でいらっしゃいますもの。貴方が立ち去るまで出てこないかもしれなくてよ」
「そこまで意地悪でもないと思うがな……」
 しかしそんな予感もするから、何とも言えない。傾き始めた日を一瞥してから、政宗は愛へと向き直る。
「But, それが母上のケジメって言うのなら、俺がとやかく言う事じゃねぇな……じゃあ、愛。母上によろしく伝えておいてくれ」
「……えぇ、分かりましたわ」
 愛は頷いてくれたか、何処か名残惜しくつぶやく……それが何ともいじらしい様だと見入る政宗であったが、ここで引き止める訳にもいかない。
「俺は必ず帰ってくる……将軍を倒したら、今度は皆が皆らしく生きる国を、『ここ』から創るんだ」
「都で創るつもりはありませんの?」
「No, そういう意味で言ってるんじゃねぇよ。場所なんて、この天下(あめのした)であれば何処だって同じだからな」
 夏の朱き夕闇に染まり始めた蒼空を見上げて、政宗はいつものCoolな笑みを作ってみせる。
「例えどん底からのStart(始まり)であっても、竜は天へと昇るもんだ……でも、誰だってそんな風に昇る事が出来れば苦労しねぇ。俺だって皆のお陰でここまで這い上がる事が出来たくらいだからな」
 そんな風に笑えるようになったのも、ついこの間のようにも思える。奥州筆頭として名乗りを上げ、皆と駆け、勝ち進んでゆく内に、いつしかもう一段上の夢を見出した……が、その夢すらも、童子の頃に心に浮かんだものの延長に過ぎなかった。
「そんな大望を抱いて生きられる国は、天に近い所で創る訳にはいかねぇよ。だから俺は『ここ』から新しい世を創る。皆が平等に立てる国は、叶う前の夢の始まりから創るべきなんだ」
「だとすれば……貴方の国創りは、もう十一年前から始まっていたのですわね」
「Yes,……まぁそういう事でもあるな」
 そうだ、確かに己の夢はあの頃から始まっていたのだ……それを思い出させてくれた女は、初めて会った時と同じように、鈴のような声で幼く笑ってみせた。
「童子の夢を土台にして創る国の事ですわ。もう少ししっかりした支えが無ければたちまち倒れてしまいましてよ……遠征に出れば色々な国を見る事になるでしょうから、良く見ておくとよろしいですわ」
「OK. ただ駆けるだけじゃつまらねぇからな。この左目で収められるだけのものは見ておくさ」
「ならば結構ですわ……留守居につきましては、私が母上様から申し上げておきます。名代は私にお任せくださいまし」
「What's(なんだって)?」
 今度はその手を胸に当てて、愛はその一言に絶句した政宗を睨むように言い切る。
「女は家を守るものですわ。私の命に賭けても、この青葉には誰も触れさせません」
「……そうだな。お前なら、誰であろうとも立烏帽子で叩き切っちまうかもな」
 あの匕首をもっての宣言の真なる意図は、きっとこれだったのだ――今の彼には守るべきものが多過ぎるから、せめて遠征時に持っていけない城だけは守ってみせると。
 そうすれば、政宗も背後を気にする必要は無くなる。ただ前を見て、駆け抜けるだけだ。
「えぇ、そういう事ですわ。ですから梵は、何の気兼ねもなくお進みくださいまし……道中が悪路だろうとも、今の貴方なら越えられるはずですわ」
「……あぁ、本当に俺には勿体ねぇ女だな。お前はよ」
 だからこそ、ますます頭が上がらないものである。本来、祝言なら遠征前にやっておきたいものだが、これでは将軍を倒してからではないと認めてはくれないだろう……頭を抱え出した政宗であったが、愛はまたクスリと笑って見せると、小柄な背を伸ばして、渋い顔の政宗の両頬に手を当てる。
「私とて、母上様の下で厳しい修行を受けましたのよ。こんなにも雄々しくなった貴方に見合うようになったか、私とて不安ですのに」
「その修行って……まさか、武芸のか?」
「ふふ……その成果、ここで試してみます?」
「……No, 帰ってきてからだ」
 八年前の一戦を思い出すと、未だに背筋も凍るものである。
 だがその触れた手の柔らかさは、決して武芸だけの成果では無い事も察せられる――彼女にとって、いわゆる『花嫁修行』の方が大変だったに違いない。
 その辛さを表に出さない愛を労るように、娘の時分から大分肉もついた腰へと腕を回す。彼女もまた、娘から女へ変わりつつある。
 酷暑の残照が地の境へ落ちる頃に交わされた口付けは、お互いにとって初めてのものだった。
 濃藍の闇の中で震える女の唇に熱は無い。それほどまでに不安でたまらなく、血の気が引いていたのだろうか。それを温めるように啄んでみるも、やはり震えは収まらない。
 しかしそれを言葉にする事も出来なかった。遠征はいつだって危険と隣合わせだ。だから他の連中と同じように、ひたすら狂躁に走らなければやっていけないものでもあるのだ。
 だが、それでも今だけは心穏やかに過ごす事が出来た。弱い心を押し殺して鼓舞してくれた愛を置いていくのは辛いが、このか弱い女を守るために戦に出るのだと思えば、ただ狂奔する訳にもいかないだろう。
 政宗は唇を離して、その小さな頭を包むように抱きしめた。頬から落ちた愛の手は、そのまま裾を掴んで離さない。
 涙は互いに堪えたが、この宵の涼風だけは如何ともし難い……そこで、物音が響いた。
「真に留守居をするのであれば置いてゆくが……その様で務まるか、藤次郎よ」
 冷えた声を投げつけられて、胸の中の愛がさらに震えた。だが政宗は、『それ』に真っ向から対峙する。
「本当に不安だったら、そのように言う必要は無いはずだ。狐が動かないのが良い証拠だろ?」
「あの兄を侮らん方が良い。阿呆に見えて、真にしたたかであるからな。私も兄の下命であれば、青葉を攻める軍に加わるぞ」
「本当にそのつもりがあるなら、ここで言わない方が良かっただろうぜ。母上よ」
「……そなたは見る度に背の君に似てくるから心苦しいものだ。女の心中を察する甲斐性を身につけてから、睦み事をすべきだな」
 手ずから馬を引いてやってきたのは、細身の男装の女だ。研ぎ澄まされたその美貌には全く陰りもない。やがて現れた三日月の光に照らされれば、息子ながら溜息すら出てしまう。だがやはり、母――お東の方とも称された義(よし)の表情は頑なであった。
「兄上が上洛の際に使用した道中の地図と各国の情報は、片倉に預けた。少し古いものだが、あの柴田も差異は少ないと見たゆえ、参考にはなるだろう。使うといい」
「用意までしてくれたのなら、遠征も最上に筒抜けか」
「兄上は私にも隠しておいでのようだが、既に戦支度を始めている。面倒だろうが、先に最上を潰してから行く方が良いぞ」
「OK……まぁ、命を取る事だけは勘弁するよう皆にも言っておくぜ」
 こんな大事の合間に、母は伊達のために尽くしてくれた。それには素直に感謝の念もこみあがる。
 そのつもりで頭を下げようとしたが、察した母は頭を振る。
「これはそなたのためにやったのではない。あくまで最上と奥州のためだ。そなたは独眼ゆえ、視界が狭いのだ……勘違いされて道を誤られても困る」
「だとすれば……将軍は、本当に東夷を討つ算段でもしてるという事か?」
「討つまではわからぬが、手始めに西の武将らの戦を調停していると聞く。その戦に紛れれば上洛する手間も省けるかもしれんが、逆にそれを成された国に入れば、敵が増えるかもしれぬという事だ」
「Shit……ソイツは確かに面倒だな」
 調停が成されてしまえば、その相手国と友好になる場合もあるだろう。そうなれば、一緒になって伊達に対峙する可能性も出てくる。余計に読みづらくなった情勢に、政宗の顔はますます渋くなる。悪路(戦闘)は覚悟していたが、天候(情勢)まで混乱しては堪らないものだ。
「だが創世を成すには、その程度も容易にこなさなくてはな……まずは背の君の書斎でも探ってみるがいい。かつて成された盟約が未だに守られているのなら、北条が呼応してくれるはずだ」
「北条の爺さんか……小田原の宿なら寝心地良さそうだぜ。でもあそこは今、徳川も勧誘してるはずだな?」
「そうだ。三河の徳川と手を取れば、確かに要らぬ敵を招くかもしれぬがな。されどその軍事力は織田ですら脅威と見るほどだ……私が最善と見るは、北条を中継して、徳川と手を結ぶ事だ。そこからは情勢を見て判断するのが打倒だろう」
「……あぁ、そうさせて貰うさ」
 愛は各国で争いを起こした方が良いと言っていたが、この母は全ての情報を吟味してから進言している。その冷静な判断こそ、信頼とは別種であるが確固たるもの、事実から得られたものだ。それはもう、信じる外があるまい。
「私が出来るのはここまでだ。愛よ、後は任せるぞ」
「……はい、母上様」
 おずおずと頼りなさげに政宗から離れようとした愛、しかし政宗は未だにその腰を離さない。
「母上。愛に任せて、本当に構わないと言うんだな?」
「出来はともかく、そなたが発つのなら、守りは愛に任せるしかなかろう。至らぬ嫁であるのは、始めは誰しも同じ事。後はどうするか、二人で決めれば良い」
「父上と母上は、そうしてやってきたんだな」
「あの頃の奥州こそ、真の鉄火場であった。それに比べたら、今の時代は真に温きものだ……兄上が現を抜かすのも頷ける話だな」
 兄の所業に呆れてはいるようだが、それも時代だと見るのか。義の見解は高く険しい奥州の山々の如く、峻厳なものである。
「ゆえに藤次郎よ。次に失態を犯したらどうなるか……それは承知しておるな」
「あぁ……今度こそ、失敗はしねぇよ」
 脅しのような言葉であったが、政宗は独眼で母を見つめる。
 もう闇雲に暴走してはならない。何処へ向かうかすら、己で考えて答えを出してゆかねばならないのだ。改めて問われたものですら、ただ頷く訳にもいかない。
「勝敗がどうなろうとも、誰かを犠牲にするような戦は二度としない。必ずだ」
「……その言葉、発つ前に父にも言うのだぞ」
 その穏やかな声に、今度は政宗が震える番だった。去り際に置かれた手すらも、感触は思っていた以上にやさしいものだ。
 馬にまたがって、城門の先へと去っていく義。黙って見送るしか出来なかった政宗であったが、すぐに我に帰る。
「……許せなかったのは、父上も同じだったんだな」
 結局父の死とて自身が招いた事でもあったと、母は見たようだ。過去を精算するまでは行かなかったが、出来るだけ気苦労を無くしてくれた事だけが今は救いだろう……未だに立ち尽くしていた愛から、政宗は身を離す。
「俺もお前も、今はまだどうなるか分からねぇ闇の中を彷徨ってるかもしれないけどな……」
 改めて手を差し出しながら、政宗は愛に笑いかける。
「でも今度は日の当たる場所で、堂々と逢えるんだ……一緒に行こうぜ、愛」
「……はい」
 場所は違えど、行くべき所は同じだ。無骨な手に、華奢な手が添えられる。顔を覗けば、彼女も明るい笑みがこぼれていた。
 迎えに行くつもりだったが、彼女もまた同じ所へ向かおうとするのだ。それなら、共に歩むのが夫婦らしいだろう……そう思っての求愛の言葉は、当初思っていたものよりも簡潔になってしまった。
 だが言葉を飾る余裕など無かった。あの初めて出会った夜のように、政宗の心は恋を知った童子のように逸るばかりだ。
 すっかり更けてきた夜空に掲げられた、満天の星と三日月。雲ひとつ掛からぬそれらは、静けさの中で控えめながらも美しく煌めきを放っていた。このSituation(場所)での告白もなかなか良いものだが、次こそは希望の光溢れるの日の下でPropose(求婚)したいものである……。
 そこまで考える余裕も出てきた所で、政宗は愛の手を引いて、城内へと歩き出した。
 控えめな月明かりしか差さない夜の闇の中であっても、その足取りが迷う事は無かった。



Even if I can only crawling, I live today.
(例え泥に塗れても、前を見る事は出来る)

Even if I fall down miserably, I live tomorrow.
(例え沼に落ちても、手を伸ばす事は出来る)

Even slipped in mud, as long as there is hope, I stand up.
(そして諦めなければ、どんな窮地からでも抜け出せると気づけたのだから)


<了>



▼後書
 新設定版での政愛話でした。  少しは落ち着いた二人になりそうですが、やはり出だしがこれだと先がどうなるか不安ですね……何とかします。
 今回は国主というよりも先導(煽動)する者としての政宗とそれを支える愛姫な、苦難を乗り切った後の夫婦になる予定です。一応は史実ベースですね……旧設定も桃山時代からこうなるんだけどさ。
 こういう二人なら、多少は甘くなるかなぁと思った時期もあったけど、そうでもなさそうな。うーん。
一応原作ではようやく梵天丸な話も出てきたので、コミカライズを見守りつつ軌道修正?をしていきたいなと。

 ちなみに旧設定での『泥』からこの作品をリメイクしようと試みたはずですが、見事に全く別の作品になってしまったと。
 まぁベースとなる設定も違うからこそこうなるのも已む無しなのですが、筆頭の一日……だったはずなんだけどなぁ。(それはテーマが途中で変わったというオチでは以下略)

2014/09/15

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