初冬の良く晴れた日に照らされながらも、その者はただ一人、紛れも無い陰となっていた。
 頭衣を深く被った彼は、この大軍の大将である――黄金の三ツ葉葵の旗が間も無く収穫の時を迎える稲穂のように翻る関ヶ原の平原を見下ろしながら、徳川家康はその背後に控える男に尋ねた。
「独眼竜よ、お前はこれをどう見る?」
「Marvelous(壮観)、なんて吐かすにはちょいとばかし気が早いかもな。客人はもっと増えるんだろ?」
「客人、か。相変わらず言い草は伊達者だな……あぁ、これからまだ参陣してくれる将は増えるだろう」
 苦笑いを見せながらも、己の本陣にいち早く駆けつけた彼の機嫌を損ねる気にはなれない。しかしこれだけはと、家康は告げる。
「誰もがこの大戦の後の天下泰平を望んでいるとは思っていない。お前には悪いが、儂はこれを二度とない機会だと思って臨むつもりだ……王になる気があるのなら、三成の次に相手になるぞ」
「Ha! 上等じゃねぇか……あぁ、いいぜ。望むところだ」
 眼帯の将、伊達政宗は犬歯を剥き出しにしながら唸る。彼もまた、同じ事を考えているはずだ。ゆえに乱戦の背後を突かれる前に宣戦布告をした方が互いにやりやすいだろう……政宗の背後で苦い顔をした片倉小十郎の反応を見る限り、最初の一手はまず上手くいったようだ。
 どのみち最初からその気があるのなら、先にここで仕留めるのが上策だろう。しかし政宗本人は何よりも気になる好敵手の事で頭が一杯のはずである。
「……But, 最後はやっぱり楽しみを残しておくのがBestかもな」
「真田はここで朽ちるような将では無かろう……だが此度の戦いは、大将である儂か三成が斃れねば終わらぬものだ」
 敵方についた真田幸村はここで斃れるにはあまりに惜しい武将である。虎の後継としての決着もつけたかったが、ここは独眼竜に譲るしかないだろう。
 それよりも、己はここが分水嶺だ……西方を埋め尽くす紫黒(しこく)の第一大万大吉に、まだ動きは見られない。
「毛利はまだ来ていないようだな。それほど安芸から離れたくないようにも見えるが」
「長曾我部がどう出るかにもよるだろ。怒り狂った奴の大筒が撃ち込まれたら、今度は安芸が壊滅するぞ」
「元親か……アイツもこちらに来てくれるかどうか分からんな。水軍同士の戦になれば、海路も塞がるだろう」
「陸の関ヶ原、海の瀬戸内……か。それもアイツららしい戦じゃねぇか。別にそれでもかまわねぇさ」
 政宗は快活に笑う。確かに彼等らしい決着のつけ方と言うべきか。多くの味方をつけたかった家康だが、その笑顔につられてしまう。
 あの悲劇に見舞われた長曾我部元親とて難局を乗り越え、真に決着をつけるべき相手を見出す事が出来たのだ。それを察した政宗の心の広さは、その器の大きさと共により広くなったのだろう。小田原の一戦を経て成長した彼もまた、もうあの過ちを繰り返さないはずである。
「問題は他の者……だな。毛利もそうだが、《謀聖》の動きも気にかかる。謀略だけを見るなら、あの毛利や松永よりも残忍と聞くからな」
「あの大軍を引き連れちゃ余計に目立つな……精々流れ弾には気をつけろよ」
 家康のぼやきに、政宗も同じ事を思ったようである。不穏な陰影を持つ黒紅の剣片喰(けんかたばみ)の旗は、大一大万大吉に寄り添うよう集っている――この大戦の前哨戦でもあった大坂城下の石田屋敷襲撃では、あの《謀聖》こと宇喜多直家も石田三成の警護と称して参戦したようだ。
 直家はかつて備前にて生家が没落した挙句、武将として生きる事すらままならなかった。しかし類まれなる才と冷酷な業をもって、見事に大名へと成り上がったという。その知謀は同じく西国で名を馳せる出雲の尼子経久と安芸の毛利元就に並ぶとも劣らぬほどである。
 とはいえ豊臣秀吉が台頭してからは彼の下につき、今もなお三成を盟友として見ているらしい……しかしあの荒んだ目を思い返せば、彼はただ秀吉が遺した武力を我が物にしようとしている事しか考えられない。彼こそ三成の傍から離すべき男だが、もはやそれも遅いだろう。
「……独眼竜。まだ、あの姫は救出されておらんのか」
 だが家康の不安は決して己自身に向けられていない。気丈に振る舞う政宗の有り様からは目を背けようとしたが、政宗の方が独眼を向けて言い放つ。
「他人の奥を心配してる暇があったら、早く戦を始めてくれた方がまだ良いぜ。それにアイツの事だ……ここでぼんやりしてたら、三成の首級を先に挙げちまうかもしれねぇぞ」
「坂上の姫なら有り得る話だろうが……玉(たま)殿の手前、三成も滅多な事は起こさないはずだ。愛(めご)殿も賢明であれば顕明(けんみょう)の太刀までは抜かないだろう」
「だと良いがな。アイツはここぞって時にとんでもねぇ事しでかす伊達の血も引いてるんだ。再従兄(はとこ)の俺を見てれば分かるだろ?」
 己の見立ては冗談を交えたつもりなぞ無かったが、再従妹にして妻である女を人質に取られた政宗の方はまだ軽口である。だがさすがにその独眼は歪みながら、足元でたなびいている濃緋の九曜紋へと向けられる。
「……それより、真っ先に飛び出すはずの忠興がまだ動いてねぇな。影でも使ってたらどうするつもりだ?」
「それは無いさ。今は蘭丸と井伊殿が何とか止めている、といった具合だ。慶次もついさっき止めに来てくれたんだが……」
「前田の風来坊もか? 奴はどちらにもつかねぇはずだろ」
「戻られたまつ殿の名代として来たんだ。三成の暴挙に思う所でもあったのだろう。個人で来たから参陣こそするつもりは無いらしいが、儂は構わん」
 家康は頭を振る。かつての親友ではなく、別の誰かが仕組んだだろう謀略は女をも巻き込んでいる。既に一人、東軍の将たる細川忠興の妻であり明智光秀の娘でもある玉姫が、抵抗のために自決したという報も届いている……三成もさすがに動揺しているはずだ。
「……だが家族を慈しむ事も出来る三成なら、あんな事はしない。刑部だってそうだ……大方、已む無くそうなったのだろう」
「随分奴に肩を持つな……俺は愛だけでなく、生まれたばかりの跡継ぎまで質に取られてるんだぞ。これでも奴の澄ました顔を八つ裂きにしたくてたまらねぇんだよ」
「すまない。失言、だったな……」
 静かに憤る政宗の声には、底知れぬ殺意すらも含まれている。西方にどんな事情があれ、巻き込まれた側から見れば《凶王三成》は忌み嫌われて当然だ。
 だが絆を説いて諸侯に参陣を頼んだ家康は、その悪名を使う事は無かった。それもまた、彼の事情を知るからこそだ。
「……Sorry. お前は、それでも奴と戦友だったんだからな。俺の知らねぇ事も知ってるんだろ」
 言い淀んだ家康を見て、どうやら政宗は察してくれたようだ。殺意を漂わせても、何とか怒りを堪えてつぶやく。
「なぁ。お前にとって、アイツは何なんだ?」
「……お前が言った通り、戦友だ」
 繰り返せば、その言葉は真に言い得て妙なものであった。初めてそのように表したのに、とても馴染み深い言葉のようにも思える。
「そうだ、戦友だ……例え対峙する敵が違っていても、儂達は同じものと戦っていた。いや、今でもきっと、そうなのだろう」
 だからこそ、未だに立ち尽くしているのだろう。家康のつぶやきに、政宗はしばらく沈黙した。


 かつて、不運と幸運を同時に手にしてしまった和子がいた。
 不運とは、祖父が家臣によって暗殺された事。
 そして幸運とは、それ故にか弱い和子を守るため、遺された父がより強大な者の軍門に降ろうと決めた事である……まだ若き魔王、織田信長に糸竹と可愛がられた和子は、その下でようやく揺るぎない家を再建する事が出来た。
 だがこれで、祖父の不幸が繰り返されないようになるのか……本多忠勝という豪傑を傍に置き、暗殺の不安を凌いできた和子には、幼い頃の恐怖はやはり拭えない。
 この忠勝となら天下を狙う事も出来るだろうと、そう豪語してきたのも、そんな己の不安を打ち消すためだったかもしれない。こんなに頼もしい戦士を持つ主が天下人になるのなら――そう思ってくれれば、皆が一致団結してくれるはずだ。
 ……しかし、彼と共にあれば、それで本当に良いのか。

 そんな事を思うようになったのは、信長から離れ、豊臣秀吉の臣下になってからしばらく後の事である。
 いつものように秀吉の謁見を済ませた後、城を去ろうとした時だった。大坂城下の訓練場の傍で、酷く傷ついた少年が倒れていた。
 だが、皆は知らん顔で訓練を続けている。同い年のように見えるから、助けてやらねばと思った和子であったが、背後からその秀吉がやってきた。
『手を差し伸べるな。奴はどんなに傷ついても、独りで立てる男だ』
 彼は非道にもそう言い切った。何を言うのだと反論しようとしたが、その少年は彼の言う通り、独りで立ち上がった。
 酷く殴られた痕も見えるが、それでもふらつく足取りで、落ちた木刀を拾い上げた。まだ訓練を続けようとしているらしい。
 早く止めねば、今度こそ死んでしまうだろう……しかし不安そうに見ていた和子に、秀吉は囁いた。
『死ねばそれまでの男だ。だが死なねば、我よりも高みを目指せる男となろう……いや、もしくはお前の過ぎたるものよりもだ』
 彼はそんな馬鹿げた事を平然と言いのけた。過ぎたるものとは、やはり忠勝の事か。見上げれば、忠勝も止めようとはせず、じっと少年を見つめていた。
 少年は再び駆け出した。裸足だが、風のように速い。そして先程のお返しだとばかりに、男達目掛けて木刀を振り上げた――が、豊臣軍の男達とて逞しい者が多く集う。少年の木刀なぞ片手で蹴散らしてしまった。
 再び地面に叩きつけられ、少年は痙攣すら起こしていた。だがそれでも、男達は知らん顔。秀吉も忠勝も見つめるだけだ。
 何故、彼らはそんな風に見ていられるのだろう。怯えるばかりの和子に、秀吉はつぶやいた。
『お前は、その様で天下を狙おうとしたか』
 その顔には侮蔑の色も垣間見えた。気づいてしまった和子は、顔を歪ませながらも何も言えなかった。

 結局、秀吉が去っても和子はその訓練場で立ち尽くしたままであった。
 あの後も、ようやく回復した少年は、立ち上がっては叩きのめされていた。しかし日暮れも過ぎた後、とうとう力尽きた少年に、男達が声をかけた。
『よう、今日は昨日よりも長く立ってたな』
『毎度懲りねぇ童子(がき)だな、全くよ』
『ほら、立てよ。迎えも来たぜ』
『佐吉(さきち)……!』
 男達をかき分けるようにもう一人、少年が息を切らしながらも駆けつけた。
『そなたは、またこんな所におったのか……そろそろ彼岸も見えてるのでは無かろうな』
『煩いぞ、桂松(けいまつ)……まだ、そんなものは、見えておらぬ……』
『見たくないだけであろ。全く、しょうもない奴だ。そなたは頭が回るから、血の巡りも良いのだ……文官の方を目指せば良かろうに』
『そう言うな。コイツの負けず嫌いは、あのお屋形様も買ってるんだ。何度叩きのめしても懲りねぇんだから、好きにやらせておけよ』
 少年達の言い合いに、男達も楽しそうに笑う。その笑顔には親しみすらも含まれている。
『そうさ。その歳で脚も速いんだ。それを逃げ足で使わない分は根性もあるしな』
『おい佐吉、明日は来なくて良いからな。寝る子は育つって言うんだから、明後日にまた相手してやるよ』
 はははと、明るい声で笑う男達も去っていく。それを佐吉と呼ばれた少年は悔しそうに見つめる。
『奴らめ……今に、見てろ』
『そなたは本当に懲りないな……まぁ、明日は大人しく賢人の講義を聞くのが良かろ。それなら我も付きおうてやれる』
 桂松と呼ばれた少年は、呆れた顔をしながら、濡れた布で傷口を拭ってやる……が、そこで、その彼もようやく和子の方に気づいた。
『そなたらは……いや、失礼。徳川の若君様であられたか』
『儂の事は気にするな。先に手当をしてやれ』
 桂松が平伏しようとしたが、和子は頭を振った。何も出来ず、呆然と見とれてしまった和子には、もはや手ずから何かをしてやる事もままならない。
『……徳川の?』
 だが傷ついて動けない佐吉が、ようやく和子と忠勝の方へと向く。
『……戦国最強と謳われる、本多か。どうしたら……私も、強くなれる?』
 少年の目は伏した身でありながらも、目だけは宵の明星の如く、暗闇の中で輝いていた。
『どうしたら……どうしたら、そこまで……強くなれる……』
『……忠勝、答えてやれ』
 黙って見つめていた忠勝に、和子は命じた。その強さの秘密は隠した方が良かったかもしれないが、この純粋な少年にまで隠すつもりはなかった。
『…………』
 忠勝はやはり黙ったままだったが、いつも傍で守っていた和子の背後から離れた。
 彼はそのまま、少年達へと立ちはだかるように前へ出た。さすがの少年達も息を呑んだが、やがて佐吉が声を漏らした。
『……そうか』
 何も答えていないはずだったが、佐吉は何かに気づいたようだ。傷ついた体をようやく起こして、自分の力で立ち上がった。
 その様を見て、忠勝はただ頷くように頭を垂れた。佐吉の顔に小さな微笑みが浮かぶ。
『そうか……私は、間違って、いない。前へ、ただ前へ……自分の足で、進めば……きっと、秀吉様にも、追いつけるのだな』
 嬉しそうに笑った少年は、忠勝に頭を下げると、そのまま脇をすり抜けるように駆け出した。立っているのもやっとのはずだったのに、羽のように軽い足取りだった。
『……やれやれ。火をつけてしまったか。だが……』
 悪くない、と。桂松も控えめな笑みをこぼしながら、佐吉の後を追うべく、軽く会釈をして立ち去った。
 暗闇で残ったのは、忠勝と和子だけである――結局、和子は立ち尽くしたままであった。
『……忠勝。お前は黙ってばかりで、ずるい奴だな』
 和子がようやく零したのは、愚痴である。それを聞いた忠勝は慌てて振り向いたようだが、その動揺も今は許せる。
『秀吉公……確かに、こんな儂が天下を狙おうとするなぞ、愚かにも程があると見たのだろうな』
 気づけば何でもない事だった。この戦国の世で、己はやはり幸せ者であったようだ。なんたって、頼もしい家臣もいる……こんなにも愚かで弱い主が御曹司をやっていけるのも、彼のお陰でもあるのだ。
『主である者が独りで歩けなくて、何を成せるものか。だが……』
 しかしこの訓練場で見たものは、ただ独りで立とうとした少年だけではない。和子は光無き暗がりの中で、一人空を見上げた。
 そこで見えた月は、欠けたる所もない望月だった。


「……儂はな、三成が心底羨ましかったのだ」
 頭衣を払いのけて、家康はまたつぶやいた。
「あの頃から……アイツは、独りでは無かったのだからな」
 本陣から見える大一大万大吉の旗は、もはや夜空を瞬く星々のように、数えきれないほど翻っている。それは己の三つ葉葵の旗とて同じだが、とても似たようなものには見えない。
「儂とて、忠勝のように強くなりたいと思った事は、たくさんあったのだ。だがついにその期を逃してしまった」
「武器を捨て、拳で戦うようになってもか?」
 政宗はようやく皮肉めいた言葉を返した。いつものように傍にいる忠勝の方は、やはり何も答えてはくれない。
 しかしそれでも良かった。彼は語らずとも、その大槍で己を語る者である。あの幼き日の佐吉――三成のように、理解しようと思う者にしか、彼の『言葉』は分からないのだ。
「……そうだ。儂は今でも糸竹のままだ。この様で、今日という分水嶺を迎えてしまった」
 広大な関ヶ原の大地は、今にも飛び出してしまいそうな血気盛んな武将らで溢れかえっている。だが、それらを率いてきた大将たる家康は、まだ開戦の号令を発する事が出来ないでいる。
「秀吉公は最初からそれを見抜いていた。きっと今でも、天からまだ儂を蔑んでおられるだろう」
 その手で叩きのめしても、未だに満足がゆかぬ心地だ――だが秀吉に一度屈した政宗の方は、その言葉を聞いて再び怒気を漏らす。
「自分の手で彼の世に送ってもまだ、枕を高くして眠れねぇってか。Shit! つくづく羨ましいご身分な事だぜ」
「どのみち、秀吉公を慕う者達は大勢いる。彼等を全て滅ぼさない限り……儂はずっと、このままだ」
 己こそ覇者だという証明のために強くなるなんて、そんな事まで誰も望んでいないはずである。だがただ一人でも彼を慕う者ならば、家康を罵る事だろう……三成は口汚くもそのように多くの仲間を集めたはずだが、根底には今でも秀吉への揺るぎない信頼があるのだ。
「儂は弱かった。弱かったから、いつも誰かに守られていた……それなのに、儂はまだ人の本心を見る事が出来ずにいる」
 そんな純粋な三成を羨ましいと思う度に、己の劣等感にすら疑いを持ってしまう。人の絆こそ何よりの力だと気づいたあの夜から、己は人の絆を信じようとした。そしてそれに恥じぬ己にならないよう、独りで戦える強さも身につけた。
 しかし絆が第一だ、と。言い続けてきた己が出来た事は、大将すら抜け駆けしようとする油断ならぬ伊達との同盟、そして怯えてばかりの西の諸侯らに裏切りを唆した程度に過ぎない。己は本当に皆との絆を結べたかどうか、まだ自信が持てないのだ。
「本心、か……そんなもの、俺だってまだ見えてねぇよ」
 多くの仲間を率いてきた政宗が、そこで拍子抜けしたような声音でつぶやいた。
「俺だって怖いさ。笑顔で迎えてくれたのに、そのまま誘拐しようと企んだ奴だっているくらいだ……同じ血を引く者同士ですら、この有り様だ。赤の他人なんかにたやすく胸襟を開けるもんか」
「でも、独眼竜……」
「No! 皆まで言わなくても分かってる。だからこそ、あえて自分から進み出るようにならなきゃ、此の世はどうにもなんねぇんだよ」
 その言葉は力強くも、悲しい響きを持っていた。彼もまた、多くのものを失い続けて、それでも人の絆を信じ続けてここまで来た。そんな彼だからこそ着いてきた者達は、紺青の竹雀の旗の下、一心に竜王の号令を待ち望んでいる。
「お前のやり方も、その有り方も間違ってねぇさ。後は、そのResult(結果)を出すだけだ……俺はみっともねぇものなんか見たくないからな。精々命がけでお前の答えを見せてくれ」
「……あぁ、勿論だとも」
 頷けば、政宗も微笑を見せてから、背を向けた。家康の号令を促しにきたのだろうから、その引き際すらも厚かましさが伺える。
 だがそんな東方の大将に対する態度を、彼の後に続いた小十郎は咎めもしなかった。むしろ満足そうな顔まで見せている。こちらは散々な言い草をされたものだが、お構いなしか……しかし今までの事を思い返せば、音に聞く真の忠臣の顔の理由も何と無く察せられる。
 あの独眼竜のふてぶてしさは、魔王にすら果敢に戦いを挑んだ若武者のものだ。紛れもなく豊臣に傷をつけられる前のように。
「……なぁ、三成。お前とも、このような絆を結んでいたはずなのにな。解(ほど)けてしまった今は、儂は一体誰と結ばれているのだろうか」
 皆と対等に絆を結んでいるはずだ。しかし誰であっても確信を持てぬ己がここにいる。
「あぁ、怖いのだ……儂がお前の顔を真っ直ぐ見る事が出来れば、こんな戦なぞ起こさずに済んだのに」
 ついに零した愚痴は、口の端で篭って、声にもならなかった。
 秀吉に反旗を翻すと決めた時、家臣の皆を集めて宣言した。『己は今度こそ天下を取る』と。
 それを聞いた皆は喜んでくれた。散々豊臣にいびられてきたからであろうが、何より強くなった主にこそを信頼を置く事が出来たのだ。そんな彼らを心から信じられるようになったのも、きっとその時からだ。
 皆と絆を結べば、やがて全てを覆す大きな力となる――あの時、秀吉を倒す前までは本気で信じられた。
 だが、その後は……。
「独眼竜、答えは既に出ておるのだ……この戦こそ、最悪の答えだ」
 慄きは止まらない。翻った旗の数だけ絆があるのに、今日、己のせいでそれが断ち切られる――折角左手で束ねたというのに、右手でそれを断つ鋏(はさみ)まで握っているのだ。今更ながら、己が成した事に恐怖を覚えてしまったのだ。
「間違ってはいないのだろう……だが、認めてはならぬのだ。これが絆の糸の端、その切れ目だと……」
「家康!」
 震えるその背を叱咤するような声が響いた。しかしそれは結局の所、ただの呼びかけに過ぎなかった。
「とんでもない事になったぜ! 陸路の立花は大津で立ち往生、海路の毛利は大坂で長曾我部とやりあう気だ!」
 幼い頃から仕えていた酒井忠次だからこそ許せる、慇懃無礼な報告である。ただ今回は家康もそんな事すら気にしている余裕は無かった。
「両将とも足止めを食らっているのか……これは、いよいよ好機か」
 まるで天すら己を追い立てるようだ。しかしそれもまた、己が成した謀略の結果である。
「大津の城は持ちこたえられるか? あそこは水城だ……耐え切れるかどうか」
「本戦まで足止めするっていう報は届いてるから心配するなよ。《蛍(ほたる)》とて鎮西一の武将相手にも対抗する策はあるみたいだ」
「その策、とは?」
「まずは物見のために城下の町を焼き払ったそうだ。脅しのつもりは無かったみたいだが、立花もらしくもなく動揺して、攻め切れない状態だとさ。それなら意外と持つはずだ」
 そういえばかつての本能寺の一件で、中国を攻めていた秀吉の居城を一時的に占拠した《蛍》こと京極高次である。そのお陰で光秀が魔王織田信長を滅ぼすための、決定的な機会を得る事が出来た――しかし実際はこれもまた、病状が芳しくなかったせいで留守居をしていた竹中半兵衛による、明智の謀反を完遂させるがための妙策だ。当時、畿内で最も勢いのあった反織田勢力の豊臣の居城が明智に降されたとなれば、窮地の織田に対して援軍を出そうと思う者はいなくなるだろう……事実、信長に招かれて本能寺近くに滞在していた家康ですら、明智の底知れぬ脅威に怯えて三河に逃げ帰ったくらいだ。
 だが結果的に見れば、その報を聞きつけて電光石火の如く中国から舞い戻った豊臣軍が、たった十数日後に山崎にて明智軍を討つ――光秀本人の首こそ取り損ねたが、天下の逆賊とも言うべき彼を討つという大義名分まで得ていたがために、秀吉はすんなりと畿内の覇者に成り代わったのだ。
 そして最大の脅威であった魔王を確実に屠る機会を、その大義名分と共に無血で得られるならば、少しの間の占拠などお構いなしだと許容出来た半兵衛である。三成は『一度豊臣の城を穢した謀反人だ』と嫌っていたようだが、この謀略すらも了承した『共犯者』ならば、傘下に加える理由にもなるだろう。
 とはいえ、高次が本当に秀吉の居城を落とそうと考えたなら、恐らく半兵衛も死ぬ気で返り討ちにしようと試みたはずだ。ゆえに家康が高次に近づいた理由もまた、その時の半兵衛の思惑と重なる――かつての謀反の再来を警戒した吉継と共に出陣したと聞いたが、高次は秀吉の大返しの如く大津へ戻ったのだ。西方に人質を取られていた手前、今回こそ家康の謀略を受けるか悩んでいた節もあったが、これもまた高次が叔父の浅井長政と同じく、優柔不断な心根を持っていたせいでもある。
「ならば良いのだが……しかし毛利の方は、何故大坂なのだ?」
 そんな彼に立花を任せるのも酷なものだが、あの刑部の制止を振りきった上に不利な籠城戦まで行おうとするのなら、己はその決断を信じる事こそ最善だろう。まずは一息をついてから、家康は次の報告に耳を傾ける。
「毛利はどうやら、秀吉公が遺した『もの』を取りに行ってから関ヶ原へ向かう算段があったみたいだな。でもそこで長曾我部の待ちぶせにあったんだ。ついでにその近辺で静観しようとしてた畿内や瀬戸内の水軍共も加わっての乱戦騒ぎになりかけてるってな……俺らはあそこに手出ししない方が無難だと思うぞ」
「そうか……秀吉公は海賊らも取り締まっていたからな。儂もここで彼らが蜂起するとは思わんかったが……まぁまずは、皆に毛利の奇襲は有り得ぬと伝えてくれ。それだけでも士気が上がるはずだ」
「お前もそう思うだろうから、さっきすれ違った独眼竜には伝えておいたぜ。あの右目も朗報だって喜んでたぞ」
 忠次も嬉々として答える。その秀吉が何を遺していたのかは知れぬが、かつて元親から奪った重騎を多数所有している事は知っている。ただ毛利も長曾我部と同様にあの中国征伐で手痛い失態を犯していたから、豊臣には相当な恨みを持っているはずだ……が、今回は当初から西方の軍を援助しているとも聞く。
 さすがは《謀神》――毛利元就の本意は家康でも未だに計り知れないものだが、あの元親が本人を抑えてくれるのは何よりの朗報だ。さらに秀吉に泣かされた瀬戸内の水軍らも加わっての乱戦となれば、元就が関ヶ原で打つはずの最初の一手は免れる。またそれ自体が策として予め関ヶ原の援軍を割いたとしても、《西海の鬼》相手では満足に援軍の采配も出来ぬだろう。
 だが逆にあの常磐の一文字三星が見えない事こそ、諸侯は彼の厳島の奇襲を連想して不安がるはずである。この真実ばかりは早めに伝えた方が良さそうだ……と見ての下知だったが、小十郎の耳にも入れば、彼が代わりにやってくれるはずだ。豊臣にも認められた《右目》なら、瀬戸内の情勢も良く知っているだろう。家康は顔を緩ませて頷く。
「さすが手早いな。それなら手間なく済みそうだ……ついでに天海殿への礼状もお前に任せるが、構わんな」
「ここで生き残って帰ってこれたらな……って、そこまで話がついてたのか?」
「いいや。彼ならばこういう『返答』をするだろうと思っての事だ」
 苦笑いを見せれば、忠次も同じように声に渋みを含ませる。
「これでも俺はあの伊賀越え以来の綱渡りをしてきたんだぞ。まぁそうでもしないと《謀神》は出し抜けなかったかもしれないがな……あぁ、その彼からの言伝だが、あの鍋将軍の鍋が煮え切る前に本陣に大砲でも撃ちこんでくれってよ。やっぱり主の方はまだ迷ってるみたいだ」
「金吾には荷が重すぎる決断だからな。力ずくとなるが、そこまでやれば天海殿も説得しやすくなるだろう……忠勝、その時は程々に頼むぞ」
 忠勝の方を見やれば、聞いていた彼も無言で頷く。彼もまた、家康がもう一つの天恵というべき確信をしたと悟ってくれたようだ。
 毛利の麾下たる小早川秀秋はともかくとして、あの天海がこれを知れば、結果的に優勢となった家康の誘いに乗る方が上策と見るだろう――海上の開戦の伝令となった忠次がここまで五体満足であったのも、同じく水軍を采配する者であり、尚且つそこまで『読める』彼が密かに庇護してくれたからだ。あの元就であれば、この急報こそ家康に届いてはならぬものと見るから、長曾我部の伝令と同様に始末しようと企んだに違いない。
 だが元就ですら得体が知れぬと見て遠ざけたほどの男なら、事前にその謀略を阻む事が可能であろう。そしてこの態度こそが小早川軍の嘘偽りの無い『返答』にもなりえる。本来は秀秋がするべき決断であったが、彼とて豊臣家との浅からぬ絆があったのだ。それは近くで見ていた家康も良く知っているし、あの天海にも思う所はあっただろう――そう、かつての謀反を起こした張本人である《彼》なら、尚更に。
「……そうだ。刑部の方はどうした? 大津があれでは、同行していた彼も巻き込まれたのでは?」
 ここまでの準備はまず成功したようだが、いよいよ混迷を極める大戦になりそうだ――今頃、三成もその急報に心を乱しているだろうと思いかけた家康は、もう一つ忠次に尋ねた。
「詳しい事は俺でも分からないが、大津征伐は立花に一任して突っ走ってきたと思うぜ……ほら、あそこに」
 忠次が西方を指さす。大一大万大吉の旗に、象牙色の対い蝶が入り交じる。
 家康にとって、かつての桂松こと大谷吉継は、今でも猛将に相応しい器を持つ男だ。病を得るまでは、彼もまた三成と共に太刀を振るっていたのだ……結局あの時の温厚な彼ですら、豊臣の副将へ上り詰めるために無理をしてまで血路を突き進んでしまった。その妄執は容易く打ち破れまい。
 それと同じ頃、東方より真紅の六文銭と真朱の武田菱が西方へと雪崩れ込むように到来する。にわかに紺青の旗が鳴動し始めているとなれば、独眼竜もこれ以上は辛抱ならないだろう。吉継の到来に気取られた家康であったが、何とか口元を引き締めて命じる。
「……忠次。お前は独眼竜の援護に当ってくれ。武田軍の相手なら、お前の方が手馴れているはずだ」
「三方ヶ原の再戦という訳だな。任せてくれ……あぁ、家康」
 命からがらやっと辿り着いたばかりの忠次であったが、それでも快く引き受けてくれた。しかしそこで何かを思い出してか立ち止まる。
「間違っても、凶王と刺し違えるような真似は考えるんじゃねぇぞ。アンタは徳川の絆の要、その結び目なんだ」
「……あぁ、勿論だ。儂は……」
 まだ、この言葉は本心では言い難いものだ……しかしここで言わねば、長い付き合いの彼の信頼を裏切る事となる。震えそうになった拳を握りしめながら、家康は大きく頷いた。
「勝ってみせるさ。三河武士、徳川の名に賭けて」
「その言葉、ちゃんと胸に刻んだからな……あぁ、そうだ。真田相手なら信之も連れて行くからな。忠勝、ちょっとお前の一番弟子を借りるぞ」
 冗談めいた事を返しながら、忠次は己の胸に当てた拳を、今度は忠勝の鎧に突きつける。娘婿の援軍にも異論は無いようで、彼は潔く戦場へ赴こうとする忠次に槍を掲げてみせた。
 誰にとっても、この一戦は長年の争いの決着にもなるやもしれない。忠次を見送ったついでに空を仰ぎながら、家康は渋い顔でつぶやく。
「今更弱音を吐いても、遅いな……行こうか、忠勝」
 弱気な主の下知を受けたが、忠勝はあえて気づかないふりをしてみせ、出撃の準備に入る――その間、朝靄から覗いた暗き太陽を見上げつつ、家康は少しだけ考えてみた。
 もし己が、秀吉を倒そうだなんて思えぬほど、弱い糸竹のままだったら……。
「……独りでも強くなろうとするお前とは、絆を結べなかったかもしれんがな」
 そしてまた、己とて絆の力なぞ信じられなかったはずである。長い忍耐の日々から立ち上がった今、その拳の振り下ろす先がようやく見えてきたように思えたが、躊躇いは未だに胸中に残ったままだ。
「お別れだ、三成……儂はお前のように苦しい思いをする子がいなくなる、そんな平和な世を作りたいとも思っているんだ。お前だけは、決して受け入れてくれないだろうが」
 それでも別れの言葉をつぶやいてみるも、この距離では届くはずもない。
「そうだとも。儂は、あの場で垣間見たのだ……」
 なおも繰り返そうとしたつぶやきは、かつて言いかけた事と同じものであった。だがそれも、忠勝の駆動音と開戦直前の歓声で掻き消える。
 忠勝の背に乗って、家康は戦場へと降り立った……そしてふと、そのつぶやきが誰にも聞かれなくて幸いだったという奇妙な安堵も湧き上がる。
 それこそ大きな矛盾を含んでいたものだった。だがそれとて今更気づいても遅いものだから、目を閉じて、戦前の刹那にある虚無へと心を没ませる。



 ――独りで歩もうとした彼らの間にある、例え死してもなお別たれぬだろう絆(ちから)を。
 これから始まるのは、それを誤って見出してしまったがために、かつての朋の屍を踏み越えて平らかな世を創らざるを得ない、愚かな男の戦いだ。



<了>



▼後書き
 旧暦関ヶ原とサイトリニューアル記念として書いた東軍な話でした。
 開戦直前の雰囲気話ともなってしまいましたが、ここまでの流れやこれからの展開については長編でやるべきでしょうな……うん、視野には入れときます。
 ちなみに月蝕とは対な話となってます。こういう形式は昔もそれっぽいのやってたけど、やっぱりしんどいね。(白目)

 2014/09/15

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