一


 坊主が説く『地獄道』というものは、いまいち想像がつかない。
 しかしもし実在しているのなら、こういう所を指すのだろう……若子は立ち尽くしたまま、ぼんやりとそう思った。
 崖から落ちた男の顔は、暗闇で良く見えなかった。どんな顔をしていたのかすら、もう曖昧だ。
 思い出したくも無かったが、この時だけは想像してみようと思ってしまった――だがやはり上手くいかなかった。
「……早く、戻らなければ」
 上手くいかないのなら、時間をかけた所でどうしようもない。西方へと落ちてゆく残照に気がついた若子は、ようやく帰路に着こうと思い立つ事が出来た。
 あぁ、早く帰らねば……折角用意してくれた夕餉が冷めてしまう。薄い腹を撫でながら振り向いた時、若子は気の抜けた顔で、『それ』を見た。
「…………御方?」
 宵闇の差し迫る崖に、居るはずもない者がいた。急いで来たのだろう、小袖に暗緑の衣を乱雑に引っ掛けただけの女は、若子を呆然とした顔で眺めていた。
「如何したのだ、御方? そのような御姿で……」
 化粧も乱れている有り様だ。いや、そもそも夕刻に女一人では何かと物騒である……まだ刀もろくに握った事がない若子に、女を守る力なぞ持ち合わせていない。早く屋敷に戻るのが吉である。
「早く屋敷へ戻らねばなりますまい。若輩ではありますが、この小輔次郎が供を致しますゆえ」
 呼びかけてみるも、女は応えてくれなかった。逢魔ヶ刻(おうまがどき)の明星に心を奪われたのか、身じろぎすらもしない。
「……小輔次郎様」
 女は震える声で呟いた。闇の中、それでも明らかな蒼白の顔を見せていた。
「……この、逢魔ヶ刻でも、斯様な振る舞いは……日輪が見ておいでですのよ」
 やっと紡いだ言葉は、糾弾のように聞こえた。何故そんな事を言われるのか理解出来ぬまま、若子は尋ねる。
「斯様な、とは。御方は、何を仰っている?」
 己の『やった事』は、それほど悪い事だったのだろうか。不思議そうな顔をしたのを見て、女は再び悲痛な声で繰り返す。
「日輪だけではありませぬのよ。天におわす父上様とて、ご覧になっておいでです……なんという、事を……」
「御方、何を動じておいでだ……まさか、『彼奴』が天に誅された事を悲しんでおられるのか」
 もしかしてと披露した推察に、女は口元を袖で覆った。ただそれは、嘆くつもりではないように見える。どちらかと言えば、畏れているのか……だとすれば心配は無用だ。若子はそう思って、出来るだけ穏やかに諭した。
「いいや、その必要はない……『彼奴』は自ら足を滑らせたのだ。我はそれを、ただ見ていただけだ」
「助けようとは、しなかったのですか?」
「非力な我がその手を掴んだ所でどうにもならない。ましてや猿掛の城の主は、この我だ……何も果たせぬまま、巻き込まれて死ねば、それこそ父上がお嘆きになるだろう」
「……そのように、皆に仰るのですか?」
 しかし女の震えは止まらぬままだ。それどころか声も段々と低くなる。何故そのような態度を取るのだろうか。理解できず、若子をさらに苛立たせた。
「いいや。これは天誅でありますれば、日頃より御方にも御無体な事をなさる『彼奴』を、天がお見過ごしなされなかったのだ』
 だからと、若子は辛抱強く諭してみる。これは仕方なかったのだと、一番酷い目に遭っていた女にも分かって欲しかったのだ。
「……小輔次郎様」
 若子が請い願うようにつぶやいた言葉を、しかし女はやはり聞き入れてくれなかったようである。咎めるような目のまま――しかし奇妙な事に、その顔は微笑みのような表情を作っていた。
「お強く、なられましたわね……」
 絞りだしたかのような、震え声。女は笑っていた。今にも落ちそうな日輪の下で、いつもとは違う艶やかな色を含ませていた。
 だがその白い頬には、控えめに輝く涙滴が伝っていた……それに気づいた頃には、もう遅かった。
「……御方」
 若子はすっかり夜の帳が降りた空の下で、再び繰り返した。
 しかしもう、女はその幼い呼びかけには応えてくれなかった。日が落ちた頃には、もう彼女は何処かに去ってしまっていたのだ。


 厳島で手に入れた一万の矢が吉田郡山城に届いたのは、多治比元就が城に入って三日後の事である。管絃の祭から数えれば、きっちり十日後だ。
 あの小生意気な《姫若子》を思い返した所で嫌な気分しかしないのだが、礼状を出すくらいには律儀な元就である。返事を期待せずに送ってみれば、これまたきっちり十日後に返事が届いた。
 恐らくは讃岐(さぬき)辺りで手に入れたのか、花の透かしまで入る檀紙(だんし)の書状だった。開いてみれば、その文面はあの態度では考えられぬほど丁寧な挨拶で始まり、事細やかな情勢を語った後、慇懃に締めていた。書物からそこそこ学んだ元就だからこそ嫉妬を覚える、豊かな教養が窺い知れた一報だ。さすがは関白を出した一条家のみならず、都の京兆細川家にも覚えめでたき寵児だろう。
「……次に会うた時には、今度こそあの顔を殴ってくれよう」
「いやいや、その細腕ではさすがに無理でありますぞ。それに姫若子、というからには繊細な方なのでしょうな……ふぅむ。私も広良殿と着いていくべきでしたな」
「それは真に残念であるな。そなたの期待外れの顔が拝めたであろうに」
「そこまで不細工であったと? あの一条殿のお気に入りとも聞くから、男でも余程の器量良しと思うていましたが……」
「……もう良いわ」
 猥褻(わいせつ)な事を考えていた奴と、今後の話なぞしたくもない。だが領内の情勢を志道広良と共に安定なさしめた重臣なのだから、支城を治めるのにも一苦労した元就が無下に扱う事も出来やしない。
 十以上も歳が上である福原左近允広俊は、若くして毛利家の筆頭家老を務める男だ。代々の毛利家に重宝された福原家の現当主、そして興元と元就の毛利嫡流の兄弟にとっては従兄でもある。
 数少ない毛利家の良心的な臣であり、将来有望なのは間違いない――しかしいささかのんびりし過ぎなのが玉に瑕というものだ。元就はこれ見よがしに溜息をつきながら、領内の報告をまとめた粗野な楮紙(こうぞがみ)の書状に目を通す作業を続ける。
「領内の守備は問題あるまいな」
「勿論ですとも。しかし元就様、間もなく元綱様も参られますゆえ、そろそろ出迎えの支度を成された方が……」
「いいや。奴はそのような堅苦しい事は好まぬ。それに我とて書状を読むのに忙しい。身内同士なら構わぬだろう」
「……それ故に、餅片手で?」
「さすがに昼餉を抜く訳にはいかぬ」
 皿の上の餅を一つ手に取ると、元就は口で引きちぎって頬張ってみせる。文字を読む事とて、腹が減るものだ。昔もこのように、食べる間も惜しんで書物を読み耽っていたものである。
 しかしさすがに行儀悪いとは自覚している。あの彼女にも散々怒られた……と思った所で、元就はこの彼をわざわざ自室に呼びつけた本当の理由を思い出す。
「……ところで左近允」
「弟君の様子はどうであったか、と?」
「そんなものはどうでも良い……御方は、見つからなかったのか?」
「残念ながら、領内では未だに見つからぬとのこと」
 声を顰めて聞いてみるも、広俊は目を伏せて頭を振った。
「興元様もご心痛のゆえ、これを機にと人手を増やして頂いたのですが……領内の寺にも匿われた様子も無いと」
「義姉上に匿われた、という可能性はあるか?」
「そういえば、親戚でもありましたな……確かにあの方という可能性もありますが、そうなると貴方様がお会いするのは難しくなりましょう」
「……で、あろうな」
 あの悲痛な笑顔を思い返して、元就は目を細める――多治比猿掛城から去り、この城に戻ったと思っていた『御方』は、あろう事か本当に行方知れずになっていたのだ。兄も無理に探すつもりは無かったようだが、武田元繁の戦に巻き込まれては一大事という元就の進言を聞き入れてくれた結果、人を割いて行方を探す事となった。
 しかし一月経っても、良い知らせはやってこない。まだ武田が攻めてこないだけ良いものだが……元就は眉を顰めながら唸る。
「……実家に戻られたのであれば、まだ良いのだが」
「いや、それはあまり良くありませんな。もし良からぬ事を吹き込もうとお考えであれば、貴方様のお立場が無くなりますぞ……」
「……我は元より、己の保身なぞ考えておらぬ。御方が無事であれば、それで良い」
 広俊はどうやら元就の身――ひいては元就を次代の当主に据えようと企む己の身を考えているようだが、当の元就はそれすらもどうでも良い事だ。
 とはいえ実家の高橋氏――毛利家にも影響を齎す有力な国人が今後の後継問題に割り込もうとするとなれば、話は別である。興元の嫡子である幸松丸は、現当主の久光の孫にもあたる。当然ながらこの久光とて後見役の一人に祭り上げられるだろう。こればかりは今の元就に阻止する策なぞ一つもない……そう、考えた所で実現が不可能であるなら無に等しいものだ。
「そして、この毛利が安泰であるならばな……父上も、兄上もそのように家を守ろうとしたのだ。であれば、幸松丸にもそのようになって貰う他があるまい」
「そのためにも、貴方様が手本として振る舞う、と……そのおつもりであれば私とて何も言えませぬが、広良殿ならば早う貴方様がお立ちになるべきだと進言するでしょう」
「その時は貴様もどうせ加わるのだろう。我は聞かぬからな……」
「なら、俺もそこに加勢するしかないな」
 その声を聞いて、元就は思わず餅を落とし――そうになったが、何とかそれだけは阻止した。しかし呆気にとられたせいで、上手い返しが思いつかなかった。結局、声に出たのは月並(つきなみ)な言葉だ。
「……そなた、いつ来たのだ?」
「つい先程だ。次郎の兄上がお出迎えにならないので、勝手に上がらせて頂いたのだ。一応、太郎の兄上にも登城の挨拶は済ませたのだが、残念ながら顔はまだ見ておらん……その足で、次郎の兄上にも挨拶しに来た次第だ」
「つい先程、か……そなたは宗家の当主になりとうないのか?」
「元就様!」
 つぶやいた一言に、広俊が顔を歪めて叫ぶ。しかし不穏な言葉を吐いた兄に、彼――相合小輔三郎元綱は快活に笑って答えた。
「あぁ、そのような面倒事で寿命を縮めるのは俺も御免だ。幸松丸の左手(ゆんで)にならいくらでもなろうと、松(まつ)の義姉上にはそう申し上げたぞ」
「そうか。なれば、我はその右手(めて)となろう……うむ、これで丁度良いな」
「いやいや、これは義姉上に向けての建前で、本音ではありませぬぞ」
 体格の良い元綱は、元就を上座にするよう座り込むと、改めて顔を険しくさせて囁く。
「どうやら本当に噂通りのようだな。次郎の兄上は、まだ太郎の兄上と会うていないのか……義姉上なぞ、その右手で脇にどかせば良いだろうに」
「されどその義姉上の背後には、あの久光もいる。奴にはまだ使い道があるのでな……ここで仲をこじらせる訳にはいかぬ」
「使い道、か……面会までさせて貰えぬのなら、どうせ久光翁の意向もあるだろうに。次郎の兄上が良ければ、俺があの首を射抜いても良いのだぞ」
「面倒事をこの我に押し付けるために、か?」
 この彼こそが次期当主を狙っていると専らの噂であるが、どうも話が違うようである。昔は異母弟ながらも良く遊んだ仲だから、少しは気を緩めて冗談混じりに尋ねれば、元綱は苦い顔で答えた。
「勘違いされても困るから先に言うが、俺は当主の柄ではない。ましてや父上も太郎の兄上も出来ず仕舞いの世渡りをする才覚も無いのは、この俺自身がよくよく承知している。とはいえそんな太郎の兄上の子である幸松丸とて、正直あまり期待出来ない」
「何を申すか。まだ幸松丸も幼子だ。勉学を我が、武芸をそなたが見れば期待もできよう」
「そんな暇があるのなら、俺とてそうしようと思う。でももう無理なのだ……次郎の兄上、急かして悪いが早く決めた方が良いぞ。今の久光翁は必ずや次郎の兄上を避けようとするからな」
「……《狼》が、その背についたか」
 思い浮かんだ敵をつぶやけば、元綱は黙って頷いた。広俊もその話は初耳であったのか、顔すら青ざめている。
 雲州の狼、尼子経久――嫡流の京極家を退けて雲州を奪った梟雄は、正に下克上の寵児である。その勢力は餓狼の如く、周囲を食い荒らすように広がりつつある。
 その彼が、いよいよ元就を標的と見なしたようである。だが元綱の方は、その顔に不敵な笑みを覗かせていた。
「だが見方を変えれば、次郎の兄上をそこまで脅威と思うているのだ。世渡りも先日の一件を聞いた限りだと、やはり兄上の方が出来るに違いない。となれば、兄上の世襲こそ最善であろうに」
「いや、しかし……」
「もちろん面倒事を次郎の兄上だけに押し付ける気はない。今なら幸松丸の養育も、次郎の兄上の左手も俺が引き受けてやる。昔は俺も稚すぎて太郎の兄上の手助けも出来なんだが、《今義経》なんぞ言われる今ならば、少しは手助け出来るはずだ」
 元綱は澄んだ双眸を真っ直ぐと次兄に向けた。その声が本心からのものであったのは、元就にも十分に伝わってしまった……だからこそ、心苦しさすらも感じてしまうのだ。
「……先日の一件とやらは、誰から聞いたのだ?」
 それは間違いなく、足利義輝との謁見の事であろう。だがこの話を知る者は、あの場に居合わせた広良と久、そしてそれを画策した興元と広俊くらいだ。それ以外の者と言えば、あの御座船の周辺に居た者だろう――。
「……それは、兄上にも言えぬ。口止めをされているのだ」
 しかし元綱は顔を曇らせて、首を横に振った。これ以上聞くな、とも言いたげなものである。
「……それがそなたの意志なれば、出来る限り尊重しても良い」
 少なくとも、互いの立場は昔とは違うのだ。渋い顔を見せながらも、元就は頷いた。
「だが今は、嫡流を存続させるのが我らの務め。それは弁えよ」
「あぁ……何であれ兄上が直系の男子だという事を、ご自身が忘れない限りはな」
 元綱も不承ながらつぶやく。現状を認めたくないと駄々のようなものを捏ねるのは己も同じだから、元就はそれ以上咎めるつもりはない。
「我はもはや、分家の人間であるのだがな……全く、我の周りは口うるさい者ばかり集うてどうしようもない」
「それで昼間からこんな所で書状を読み耽けているのか。次郎の兄上まで酒に走られたら、いよいよ俺も放り出したくなるぞ」
「酒になぞ溺れる我ではないわ」
「で、代わりに餅を食うているのか……やはりあの久の義姉上が作られたのか? なかなか美味しそうな餅に見えるな」
「腹が空いているのなら、早う言うがいい」
 別に独り占めする気も無いので、元就はようやく口元を緩めながら、その皿を前へ差し出してやる。武芸をする者、食べる量も違うはずである。正午もとっくに過ぎたはずだから、昼餉も馳走になっているだろうに、元綱の手は早かった。
「いや、そこまで意地汚い真似をするつもりはないが……うむ? これはえらく固い餅だな」
 早速一口頬張った元綱は首を傾げている。それに元就は淡々と告げる。
「粘り気が強いと喉を詰まらせるから良くない、とな。久の計らいだ」
「ほう、さすがは次郎の兄上の嫁だな……良い仲と聞いているが、こんな城では睦み事なぞ出来ないだろうな」
「確かにあまり良くない時期に来たか……胎(はら)の子に障りが無ければ良いが」
「そうだな。さすがの義姉上も尼子の嫁相手にはいびらないだろうが……ぐ、ご、ごほっ!」
「……そういえばそなたは、良く噛まずに飲み込む奴であるな。何であれ餅なのだから気をつけろと、昔から言うておるのに」
「……あの、元就様」
 早速餅を喉につまらせた元綱の背をさすりながら、広俊は顔を歪めて尋ねる。
「子、とは……貴方様の、でございますか?」
「それ以外に誰が居るというのだ? 久は貞淑な女だし、他の男と通じた素振りもないぞ」
「いや、そういう事ではありませぬぞ……何故それを早く仰らないのですか!」
 広俊の怒鳴り声は久しぶりに聞いた気がするが、こうも近いとやはり煩わしきものだ。劈(つんざ)いた耳をさすりながら、元就も眉を寄せて反論する。
「何故そなたらに言う必要がある。しかもこのような時に言うては、兄上にも障りが……」
「……だ、だからこそ、それは太郎の兄上には、伝えておくべきだろう。良い口実、ではないか……」
 ようやく調子が戻った元綱は、喉をさすりながら苦い顔の元就を睨みつける。
「……全く、次郎の兄上は……己の事には本当に無関心だな。少しは浮かれても良いのだぞ」
「……浮かれる、か」
 しかしそうつぶやいてみても、元就は憂いた顔しか出来ない。
「兄上には報告せねばなるまい……が」
 確かにここまで早く己の嫡子が出来るとは思ってもみなかった……あの厳島からすぐに吉田郡山城に入ったが、この城ではまだ同衾はしていない。そんな暇もなかったのだ。
 だとすれば、その前であろうか……いつもの月の障りに乱れがないからこそ不信に思ったのか、久が薬師に診て貰ったのも、ついこの間の事である。もちろん腹は目立っていないので、それを明かすのは兄の死後の方が良いと見ていた元就であったが、やはり死にゆく肉親には伝えた方が良いはずである。
 ……しかしそれでも、己の心は冷めたままである。つぶやいたきり黙ってしまった元就に、元綱も広俊も渋い顔で見守るしかなかった。


 あの義姉、松という女は烈女と言っても過言ではない。
 しかしいつも気の強い態度で、良からぬ事を企んでいるような義弟を避けようとするも、いよいよ力尽こうとする夫の前では脆いものである……元綱と共に兄の寝所近くまで来た時、にわかに聞こえてきた女の泣き声に、元就もほんの少しだけ哀れみを感じてしまった。
「……あと、数日かもしれんな」
「今夜の内には家臣らを集めた方が良いだろう」
 元就の冷淡なつぶやきに、元綱も同じような声で応じる。あの父たる弘元もまた、自身が病んでまで安芸を守りぬいた男だ。犠牲は付き物だという冷酷な性格は、恐らく父譲りであろう。
「お、御二方……」
 城主の寝所を守っていた侍女達が、突然の来訪に顔を歪める。元就の方は何が何でも追い払えと命じられたかもしれないが、奥方が頼りにしようとした元綱まで伴っていれば混乱するのも無理はない。
「下がれ。兄上に申し上げたき事がある」
「お、お待ち、を……」
 ましてや城主の実弟である元就に逆らうほどの度胸なぞ、最初からあるはずも無いだろう。そそくさと寝所に入った侍女を見やりながら、元綱は苦笑を漏らす。
「あれでは後が大変だろうに」
「侍女の相手は久に任せる。我に関知する時間もないわ」
「そんな兄上に、よく着いていく気になれたものだ。さすがは鬼吉川の姫であるな」
「我とて、そればかりはいくら考えても答えが出ぬのだ」
 弟の軽口を真顔で返した所で、侍女らと共にやつれた女が出てきた。久方ぶりに顔を合わせた松は、元就を見るなり顔を歪めて唸る。
「小輔次郎殿……殿は、いよいよ御身も起こせぬのだぞ」
「それゆえ、手遅れになる前に会うたのだ。我の独裁を不安に思うなら……」
「兄上、それ以上はお控えくだされ」
 元就の言葉を遮るよう、元綱が横から口を出す。そして義姉へと向くと、場違いな微笑みを見せて言った。
「申し訳有りませぬ。されど我ら兄弟で話をするのも、これが最後の機会となりましょう。心中はお察しするが、どうかこの一時はお控えくださるよう」
「……私に、ご兄弟の仲を裂く気なぞありませぬ。されどもしご容態が変じた時は、私をお呼びくださいますよう」
「我とて夫婦仲を裂く気はない。その時はすぐに呼ぼう」
 震えた声の女に、元就は平坦な声をかける。己はいつもの冷たい声をなるたけ抑えたつもりであったが、松の顔は心痛で歪んでいる。
 義姉が侍女と共に去った後で、二人はようやく長兄の寝所へと入った。酒害で倒れた兄は、湯漬けすらも喉に通らず、起きてもまともな返事をせぬと聞く。
 しかしそれはただの狂言に違いない……元就はそう思っていたから、久しぶりに会った兄の様子に、さほど驚きはしなかった。
「兄上。元気そうで何よりだ」
「……やはり、そなたは心配もしてくれぬのだな」
 本当に身を起こせぬほど痩せてはいたが、その声は未だに強気なものであった。毛利小輔太郎興元とは、そういった典型的な強がりである……だから誰にも頼れず、酒に溺れてしまったのだ。
「松はあれでも、夫思いの一途な女なのだ。許してくれ」
「嫁は一人で敵地に向かうようなものだ。頼れる者が夫であれば、身を挺してでも尽くすものだろう」
「そなたは、そのように久と接しているのか?」
「久は元より我に頼ろうとせぬほど、強き女だ。尼子は憎いが、久をくれた事だけは感謝しても良いだろう……このようなときに悪いが、既に腹には我が子もおるのだ」
「それは真か……あぁ、せめてその子をこの手で抱きたいものだ……幸松丸にも、兄として面倒を見よと、言うておかねばならんな」
 歓喜に潤ませた兄の目を見て、元就は久方ぶりに頬を緩ませる。そのように喜んでくれる者は、もう一握りしかいないだろう。
「久ならば、良き母となろう。我はともかく、義姉上とも仲ようやるはずだ」
「それは何よりだ……杉大方(すぎのおかた)の代わりとなる女なら、さぞかし心強き事だろう」
 安堵するように笑った興元。しかしそんな兄の口から出た言葉に、元就は表情を崩す。
「……その御方は、未だに行方知れずだ。兄上は、本当に知らぬのか?」
「もしここで私が告げれば、あの方は再び別の所へ身を隠すだろう。だが本当に私も知らぬのだ……それに母上代わりの愛妾なぞ、思うだけでも気分が悪くなるのだ」
「母上、か……我にはそれこそ遠きお方だ」
 母は己の幼い頃に亡くなった。優しい女だったのは覚えているが、それだけだ。俯いた次弟に、兄は渋い顔を見せる。
「いや、済まぬな。井上に見捨てられたそなたを育ててくれた事には、私も直に会うて礼を言いたいくらいだ。だがもう、それも出来ぬ有り様だ……」
「兄上、無理をせねば、まだ……」
「いいや、今日はまだ調子が良い方なのだ。最近は気が遠くなる事が、多くてな……もう、此度の浮上が最期かもしれぬ」
 前に会った時は雄弁だった兄の声こそ、驚くほど細く弱ったものだ。元就は顔を歪めながらも、己の声だけは強く発した。
「兄上。もうすぐ、兄上の手を煩わせた武田が来襲する……兄上であれば、如何な采配を取りまするか」
「武田、か……矢はもう、届いているな。なれば、十分に引き絞れ。我らが郡山を踏み荒らそうとも、決して動じるな……確実に、彼奴の眉間を射るのだ」
「承知した。それは俺が必ずや果たそう」
 隣の元綱は厳しい顔をしながら頷いた。それを見て、興元は頼もしそうに笑う。
「頼むぞ、小輔三郎。小輔次郎の方は、此度が初陣となるのだろうが……此度だけは、そなたらが確実に生き残る策を取れ。脇柱であろうが、そなたらが次の二柱となるのだ」
「……いいや、兄上も合わせて、三柱だ」
 力なく伏していた細い手をとって、元就は微笑を見せる。
「いつまでも、兄上は我らの中心だ。どんな敵が来ようとも、揺るがぬ安芸の大黒柱だ」
「あぁ、次郎の兄上の言う通りだ。俺達が太郎の兄上の代わりに、この手で敵を討ち果たして参ろう」
 その上から、元綱が大きな手で包む。固く握られた弟達の手を見て、興元は声を戦慄かせた。
「……頼む。安芸を……頼む、ぞ……」
 震える声は、そこで途絶える。力尽きたように眠ってしまった兄の吐息はか細い……いつ消えてもおかしくはなかろう。
 だから、握ったその手を、二人はしばらく解こうとしなかった。


 毛利家の主従関係は危ういにも程がある。
 毛利家は安芸の国人の一家に過ぎず、周りの国人らと持ちつ持たれつつの間柄でもある。また、そもそも毛利家自体が庶家を臣としてまとめ上げる惣領制だ。
 それ故に、かつての多治比猿掛城の横領が簡単に成されてしまうほど、宗家と庶家の権力が拮抗しているのだ。それぞれの家長が惣領よりも有能であれば、民すらも庶家になびくものだ。
「夜分に集まって頂き、この小輔次郎元就、感謝を致す」
 だから毛利直系とはいえ、二十の坂を越えたばかりの元就の方が頭を下げるしかない。あの後、興元の容態は小康状態にこそなったが、次の目覚めがあれば、それこそ最期になるだろう……それまでに方針はまとめておくべきだと、元就は元綱と共に重臣らを早急に集めたのだ。
 形式こそ宴であったが、家長が床に臥せっているため、もはや通夜のように静かである。それでも音頭をとってくれたのは、こういう時にこそ空気を変えてくれる広俊だ。
「皆々も存じているだろうが、興元様のご容態は芳しくない。だが興元様はご遺言状を認めておられ、家督を嫡子の幸松丸様にお譲り致すとの事である」
「それは興元様が、そのように仰られたのですな?」
 確かめるように問い返したのは、いかつい顔の重臣、渡辺勝(わたなべまさる)である。彼の有名な酒天童子退治を成し遂げた渡辺綱の後裔を名乗るだけあって、戦でもすさまじい働きを見せる男だ。
「その通りだ。私がそれをお聞きし、殿も自らお筆をとっておられる。その場には福原殿、中村殿、志道殿にもご臨席をして頂いた。証文はご遺言状と共に収めている」
 幸松丸の代理として来た松は、看病で憔悴しながらも気丈に答えた。それを見て眉を顰めながらも、勝は大きく頷いた。
「いや、そこまで不信であった訳ではないが……そのような体裁が取られていたのであれば、これ以上言う事はない」
「では、その後見役も既に指名されている、という事にもなりますな?」
 入れ替わるように、古参の桂広澄が問う。元就はその内容も知らなかったが、松の方は頷いて答えた。
「これもその席で殿がご指名なされている。外からは祖父の久光殿が支え、内では叔父の元就殿がお支えする事となられた。とはいえ殿は口頭ではあるが、元綱殿にも補佐をお頼みしたいと仰っておられた。私からも幸松丸をご兄弟でお支えして頂きたく思っている」
「承知した。幸松丸殿の政は我が、戦は元綱が補佐しよう。されど我が兄弟も若輩ゆえ、久光殿がご指導して頂ければ、幸松丸殿もより心強き事だろう」
「うむ……父には私がそのようにお頼みいたそう」
 静かに頷いた元就の態度に気取られながらも、松は重々しく頷いた。
 今の己に力が無い。使えるものは何でも使うしかないのだ……兄がそのように采配したのならと、元就は納得づくで頷いたつもりだった。しかしやはり胸中に懸念は残る。
 あの高橋久光は尼子についただけでなく、自身も有能な男であり、その所領まで元就と段違いだ。この彼の権力は絶大なものとなろう……良き采配だと納得して頷いている重臣らの反応を見ながら、元就は渋い表情を何とか隠す。
「幸松丸様の家督相続につきましては、皆も異存は無いようですな……では心苦しくはありますが、この先の話も致しましょう」
 再び場に沈黙が降りた所で、志道広良が険しい顔で告げる。何の話だと誰かが問う前に、元綱が戦前のような厳しい声を上げた。
「武田の来襲だな。いよいよ戦支度を始めていると、俺の耳にも届いている。有田を取られたのがそれほど悔しゅうて堪らぬらしい」
「幸松丸様の代替わりを狙うとは、何て卑劣な……しかし福原殿も、既に備えはしておるようだな」
 勝の厳しい顔が、広俊の方へと向く。同じ重臣だから、勝手な事はするなと言いたいようである。だが広俊はいつもの飄々とした顔で応じた。
「当然でありますとも。武田は大内からの嫁を捨て、あの尼子に鞍替えまでしたのですぞ。元より安芸の守護を命じられた御方でもありますからな……今はどちら着かずの国人衆を率いる毛利を潰せば、尼子への良き手土産にもなりましょう」
「しかしその有田すら、尼子贔屓の吉川が守るようなものだぞ。もしや、その吉川まで毛利潰しで結託するのでは……」
「それはあるまい」
 勝の怯え声を、元就が制した。吉川は元就にとって閨閥であるのだ……疑わしき所があれば、早めに対処するのが肝心だ。
「我が舅たる国経(くにつね)殿とは先日、その有田で会うた。今回の戦では毛利の味方をすると確約を得たので心配は無用だ。《狼》も今回ばかりは将軍家に、『武田の不穏な動きに対しては静観を貫け』との御下命があるらしいのでな……さすがの尼子も将軍家の御不快を買う者とは付き合わぬだろう」
「な、い、いつの間に……元就様、それは真でありますか?」
 広澄は驚きながらも、疑わしげな目を向ける。ならばと、元就は懐から丁寧に折られた書状を取り出した。
「これがその証文だ。証が無ければ承知せぬそなたらの事だから、わざわざ舅殿に一筆頂いたのだ。戦場で会うたらよくよく礼を尽くして頂きたいものだ」
「さすがは明晰(めいせき)な次郎の兄上だ。武芸ばかりの俺では真似できぬ事だ……正しく兄上こそ《今広元》だな」
「馬鹿者が。その御名を軽々しく使うでないわ」
 元就の嫌味な言葉に顔をしかめた家臣であったが、《今義経》で名高い元綱の賞賛の声に押し黙ってしまう。
 大江広元(おおえのひろもと)は、毛利家にとっては先祖に当たる。その子の毛利季元(もうりすえもと)こそが毛利家初代であるが、かつての鎌倉の幕府で宰相として振る舞った男は、今でも広く伝え聞く名だ。
 元は貴族であったから、そのような優男の風貌を持つ元就を透かして見ているのだろうが、さすがにあんな大物と同列で語られても困る。
 だが自身がその広元と共に将軍を支えた、あの源九朗義経の名を頂いているだけあって、それほど畏れ多く思わないのか。元綱の笑顔はこのような微妙な空気の中でさえ逞しいものだ。
「良いではないか。俺とて太郎の兄上には、少しでも心安らかに旅立たせてやりたいのだ。紙一つで無駄な戦を避けられるのなら容易き事だ。なぁ、義姉上よ」
「それは、私も思いは同じでございますが……されど元就殿。部屋に篭もりきりと聞いていましたが、いつ有田へ参られたのでございまするか?」
 松の声にも冷たさが含まれる。あの厳島の謁見も恐らくは耳にしているだろうから、その問いかけは搦手(からめて)に違いない。やはりこの女は警戒して正解だったと、元就は真顔で答えた。
「そうだな、五日程……前の事か。備えのため、多治比に一度帰参した時にだ。舅殿にはご報告したき事もあるゆえな」
「確かに有田に近いのは多治比の方でございますな。しかし報告とは、どのような事で?」
 勝がなおも追撃するように尋ねる。しつこい男だと元就が口を開こうとした時、松が横から割り込んだ。
「それはもしや、お久殿の懐妊でありまするか? 私も先程、殿からお聞き致しましたが……」
「……この時期に明かすのは、心苦しくはあるが」
 思わぬ援護であったが、元就はむしろ渋い顔を見せてしまった。どうやら女の方が気遣いもあるようで、松は苦い顔を見せる。
「私の方こそ、気付かずに奥の務めを任せておりました。明日からは私も務めに戻りましょう」
「お気になさらずとも良い。それよりも兄上の看病の方が大事だ」
「いやいや、元就様。吉川の御方様にもあまり無理をさせてはなりませぬよ……」
「そうですとも。良き事なのですから、そこは遠慮なさらずに」
 さすがに思う事もあったか、家臣らからも気遣いの声も上がり始める。己の気遣い方が間違っていたのかとますます顔を渋くさせる元就であったが、松はそんな義弟に微笑みすら見せていた。
「こんな時にこそ、家族が増える事こそ良き事なのであります。幸松丸が良き兄になるのなら、尚の事幸いでしょう」
「……我も、そうなって欲しいと心から願うばかりだ」
 気が抜けてしまった元就は、ついそんな事を漏らす……思うだけで言うつもりなどなかった言葉だった。
 我に帰った後ですぐに取り消そうとした元就だったが、それを聞いた松の顔を見た後では、それすら出来なかった。
 ――呆気に取られた、と言うべきか。男ばかりの席で緊張していた松の肩が、その時緩く下がった。
「……えぇ。幸松丸は殿に似て負けず嫌いではありますが、良く気づく子なのです。そういえば、あの子も最近は、お久殿に着いて回っておりましたわね……きっと手伝いをしようと思われたのでしょう」
 震えた声は吐息に近いほど、かすれたものだった。だがその言葉と篭められた思いは元就にも十分過ぎるほど伝わった。


 軍議にも似た宴は、それから四半時ほど続いて、静かに幕引きとなった。
 後日決める事も多かったせいもあるが、こんな時に誰も先の戦の事など考えられないからだ……だから己だけはと、いつもの楮紙に思った事を書き連ねる。
「次郎様、そろそろ休まれては……」
「そなたこそ早う休め。義姉上も身重の身体には気をつけろと言うていたぞ」
 隣で紙をまとめようとした久の手を掴んで、元就はその言伝を囁く。まだ身重というには早いだろうが、同じ女の言う事だから間違いは無いはずだ。
「義姉上様にもお伝え致したのですね……けれど、まだ私の身体は軽いですわ」
「そういうもの、なのか?」
「えぇ……薬師の間違いだったら、どうしようかと思うくらい」
「されど障りもしばらく無いのだろう? なれば誤診ではないはずだ」
「そうであれば良いのですが……皆に気遣われては、お務めが出来ませんわ。幸松丸殿も、私の望むものを取りに行くのが上手くなってしまわれて」
「それは恐らく兄上の遺伝だな。諦めよ」
「ふふ……それでは、私と貴方様が良いように致しましょうか」
 元就の軽口に微笑みながら、久は夫の手の上に、さらに己の手を重ねる。
「……次郎様。いつぞやに仰った事を、本当に成し遂げようとしますのね」
「……我が家はここ数代、気が薄弱だ。ただ、幸松丸では遅いと吐かした小輔三郎だけは別だ。渡辺らが期待するのも無理ない事だ」
 本心こそ別に向けられているが、だからこそ、この強き方が当主に相応しい……勝らはそう思って、元綱の振る舞いに口を挟もうとはしなかったのだ。少なくとも元綱を推そうとする者らに、邪(よこしま)な私心は無い。彼らとて、大内と尼子という二つの巨頭を心から信用なぞしていないから、より近づきやすい毛利の新しい当主に期待しているのだ。
「だがな、久よ……一個の力では、人は生き抜けぬ。我は今宵、義姉上からそう教わったように思える」
 あれほど遠ざけようとしたのに、こんな時になって元就の本心を聞いた義姉は、やっと胸襟を開いたように見える。夫の臨終間際で弱くなった心では、次に寄り添う者が必要だろう。それが例え、信用ならぬ義弟であったとしてもだ。
 そしてそれを教訓のように心得てしまった元就は、今の所はただ一人、信用出来る女の手を握りながらつぶやく。
「しかしな、久……遺された我の最後の家族は、失われつつある。いつの時も、家族を失うのは辛いのだ」
「……次郎様」
 その手を振りほどいて、久は震える夫の背を撫でてやった。温かな手がいつぞやの記憶すら蘇らせたかのように思えて、元就は堪らずその胸に縋りつく。
「……しばらく、そなたがこの無様な姿(なり)を隠してくれ」
「いいえ……久は、この名の通り、久しく貴方様の御心を隠して差し上げましょう」
 慈悲深く微笑みながら、久は包むように元就を抱きしめる。その胸中で元就は呻いた。
「……我が心は、そなたに預ける」
 その時、外で女の悲鳴と慌ただしい足音が響いてきた――久がそれを聞いて腕を離そうとするも、元就が袖を引いて制した。
「だから、しばらく、待て……」
 胸を掻き毟りたくなる衝動にこらえながらも、何とか声を振り絞る。それに気づいた久は、小さく頷いて抱き直してやる。
 己はこのような所でしか、気が緩めない。それを知っていた元就は、兄の死を伝える者が来るまでの合間を有効的に使おうと思ってしまったのだ……だが温かな胸の中でようやく失われたものに対して泣き始めてしまえば、もう涙は己の意思で止める事すらもままならなかった。



<続>

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