初冬の色鮮やかな山に隠れながらも、その者はただ一人、澄んだ朝の光を浴びていた。
 長太刀を抱いている彼は、この大軍の大将である――紫黒の大一大万大吉の旗が全てを食らい尽くす蝗にように蔓延る関ヶ原の平原を見下ろしながら、石田三成はその背後に控える男に尋ねた。
「真田、貴様はこれをどのように見る?」
「圧巻……と言うべきでござろうか。某だけでなく、斯様な戦場は皆も初見でござろうな」
「ふん。さすがの虎の若子も閉口とは……貴様のような奴らが、これからさらに群れ成して集うのだろう」
 まともな表情すら浮かべられぬが、己の本陣にいち早く駆けつけた彼の厚意を拒むつもりはない。しかしこれだけはと、三成は告げる。
「だが誰もがこの大戦の後の四分五裂を狙っているに違いない。貴様はまだ良いが、私はこれを二度と無い機会と見て臨むつもりだ……王になる気がないのなら、家康の次にでも征服してやろう」
「な、何を戯けた事を……悪いが、ご遠慮頂こう」
 鉢巻の将、真田幸村は双眸を険しくさせて唸る。彼はきっと、違う事を考えているはずだ。ゆえに乱戦の最中で離れる前に勧誘をした方が互いに分かりやすいだろう……幸村の背後で苦い顔をした猿飛佐助の反応を見る限り、最初の一手はまず上手くいったようだ。
 どのみち最初からその気があるのなら、先にここで引き止めるのが上策だろう。しかし幸村本人は何よりも気になる好敵手の事で頭が一杯のはずである。
「……だが、最後はやはり真に戦うべき者を残す方が良いでござろうな」
「伊達はここで折れるような将では無かろう……だがこの一戦は、大将である私か家康が屈しねば終わらぬものだ」
 敵方についた伊達政宗はここで屈してもいずれ刃を向ける図太い武将だ。王の反逆がための極刑を下してやりたい所だが、ここは虎の若子に譲っても良いだろう。
 それよりも、己はここが分水嶺だ……東方を埋め尽くす黄金の三ツ葉葵に、まだ動きは見られない。
「……しかし、遅いな。今宵はもう望月というのに」
「大谷殿でござるか? 確か、北陸より参ると聞き及んでいるが……」
「そうだ。浅井と第五天を連れて来るらしいが、ここまで遅いとは聞いていない。甥子が説得すれば容易いはずだが」
「……もしや、途中で織田が阻んでおられるか」
 幸村が苦く呟いた。可能性としては無きにしも非ずだ。あまり多くの敵を作りたくないと思っていた三成は、その苦渋に苛立ってしまう。
 この一戦を傍観しようとする浅井長政とて影響は避け難く、真に決着をつけるべき相手まで招く事にもなりかねない。それを察した幸村の責務の重さは、その立場の難しさと共により重くなったのだ。三方ヶ原の一戦を経て変化した彼もまた、もうあの過ちを繰り返してはならないのだ。
「その織田の将も来ているだろうに……いや、弟達だけならばまだ良いが、《鬼武蔵》まで来れば話は別だ。槍の腕だけを見るならば、あの前田や本多にも並ぶと聞くが」
「某も良く噂を耳にしておりもうす……あの百段(ひゃくだん)が近づく前に避けるのが無難でござろうな」
 三成の囁きに、幸村も同じ事を思ったようである。目にも鮮やかな葡萄(えびぞめ)の対い鶴の旗は、三ツ葉葵に埋もれるように集っている――この大戦前に川中島で行われた会談では、当主である弟の護衛として《鬼武蔵》こと森長可も付き添っていた。
 長可はかつて美濃より名を挙げただけでなく、猛将として数々の戦場を蹂躙してきた。それは主の織田信長とその息子の信忠も評価し、次代の柱と見なされていた。その武勇は同じく織田の臣たる明智光秀や前田利家も注目していたほどだ。
 とはいえ織田家が弱体化してからは森家を守り、今は元同僚の家康と同盟を組んだという……しかしあの冷たい目を思い返せば、彼がただ家康を頼って家を守ろうとしているようには見えない。彼こそ家康の傘下に相応しからぬ男だが、もはや言うだけ無駄だろう。
「……真田。やはり貴様の兄は東に着いたか」
 だが三成の関心はそこまで他方に向くものではない。不安そうに見守る幸村へ目を向けようとしたが、幸村の方が目を逸らしてつぶやいた。
「某の兄は既に遠きお人であられる。今更某がどう思おうとも、上田には戻られますまい……気にしていれば、某の首が家康殿に献上されてしまいましょう」
「本多の一番弟子なら有り得る話だろうが……《謀聖》の手前、家康も短気に事を起こさぬはずだ。《信濃の獅子》も愚鈍で無ければ迂回の策を取るだろう」
「それは有り得ますまい。兄上は比興(ひきょう)の者と言われた真田の男らしからぬのだ。弟である某のように」
 己の見立ては周りの評価と同じものであったが、兄にして宿敵である男と対峙せざるを得ない幸村の方は辛口である。だが何故か緩んでいるその双眸は、足元でたなびいている黒紅の剣片喰へと向ける。
「……それよりも、先んじて策を計ろうとする直家殿はまだ動かれぬか。我らを欺いて斥候を出しているかもしれませぬぞ」
「それこそ無かろう。今は毛利と刑部が不在だから、逆に動きにくいのだ。孫市も先程参ったゆえ、余計にだ」
「雑賀の頭領も、でござるか? 彼の者はどちらにもつかぬと宣言されていたのでは」
「この戦に参陣せぬ長曾我部の名代として来たのだ。家康との体面もあるから、個人で来たらしい。参陣するつもりもないのであれば、私も文句は言わん」
 三成は頭を振る。かつての親友ではなく、別の者らが仕組んだ謀略は周囲の武将をも巻き込んでいる。既に一人、あの長宗我部元親も謝罪までして西の軍を抜けている……家康もさすがに勧誘はしないだろう。
「……だが敵まで慈しむ事も出来る彼奴なら、それも気に留めぬ内だ。長曾我部とてそうだ……已む無く別れる事になったのだろうが」
「随分と彼の者をお褒めするのですな……俺は兄上のみならず、虎の後継の資格まで奪われようとしている。この戦でどうしても家康殿を出し抜きたいのだ」
「褒めてなどない。事実を言ったまでだ」
 静かに憤る幸村の声には、浅からぬ苛立ちも含まれている。東方がどのような情勢であれ、追い越された側から見れば《東照権現》は疎い妬まれて当然だ。
 だが凶を振り撒き諸侯に参陣を強いた三成は、その尊称を使う事は無かった。それもまた、彼の内情を知るからこそだ。
「……そうでござったな。貴殿は彼の者の戦友であられたな。某も知らぬ事も知っておられるのだろう」
 言い切った三成を見て、どうやら幸村は疑問を持ったらしい。嫉妬を滲ませても、何とか苛立ちを堪えて尋ねる。
「その……貴殿にとって、彼の者は何でござろうか?」
「……貴様の言った通り、戦友だ」
 反芻すれば、その表現は実に的確なものであった。初めてそのように形容したというのに、あまりに使い慣れた表現のように思える。
「そうだ、戦友だ……例え違う立場であったとしても、私達は同じ場所で戦っていた。いや、今でもきっと、そうなのだ」
 だからこそ、未だに腰があがらぬのだ。三成のつぶやきに、幸村はしばらく何も言えなかった。


 かつて、不運と幸運を同時に手にしてしまった若子がいた。
 不運とは、次男であるが故に早々に寺に入れられた事。
 そして幸運とは、僧として一生を終えるはずの若子が居た寺に、偶然ながらとある男が立ち寄った事である……まだ若き覇王、豊臣秀吉に才能を認められた若子は、その下で土豪の父すら驚くほどの出世を遂げる事が出来た。
 だがこれで、己の幸運が尽きてしまったのではないか……大谷吉継という親友と共に育ち、宮仕の安寧を受けてきた若子には、幼い頃の鬱屈なぞもはや疎ましい。
 この吉継となら強国を支える事も出来るだろうと、そう安心していたのも、そんな己の安寧から過信していたのかもしれない。こんなに頼もしい同僚を持つ己が主の左腕になるのなら――そう思ってくれれば、皆が切磋琢磨してくれるはずだ。
 ……しかし、彼と共にあれば、それで本当に良いのか。

 そんな事を思うようになったのは、秀吉に望まれ、西国の監視ついでに堺奉行となった時の事だ。
 見送られるように秀吉との謁見を済ませた後、城から出ようとした時だった。大坂城下の訓練場の中で、酷く傷ついた少年が立っていた。
 だが、皆は怯えた顔で訓練を止めている。同い年のように見えるから、諌めなければと思った若子であったが、背後からその秀吉がやってきた。
『手を出すでない。奴はどんなに傷ついても、独りで立つ男だ』
 彼は賞賛するように言い切った。何を言うのだと問いかけようとしたが、その少年は彼の言う通り、独りで戦おうとしている。
 酷く殴られた痕も見えるが、それでもしっかりとした足取りで、落ちた竹槍を拾い上げた。まだ訓練を続けようとしているらしい。
 早く止めねば、今度こそ邪魔となろう……しかし苛立たしく見ていた若子に、秀吉は囁いた。
『立たねばそれまでの男だった。だが立てば、我よりも高みを目指せる男となろう……いや、もしくは彼の過ぎたるものよりもだ』
 彼はそんな馬鹿げた事を生真面目につぶやく。過ぎたるものとは、やはり本多忠勝の事か。見やれば、彼の鎧武者も黙ったまま、じっと少年を見つめている。
 少年は再び駆け出した。小柄だが、雷のように力強い。そして先程の続きだとばかりに、男達目掛けて竹槍を突き出した――が、豊臣軍の男達とて素早い者が多く集う。少年の竹槍を何とかかわして逃げ延びる。
 あっさり空を切ってしまい、少年は苦笑いすら浮かべていた。だがそれでも、男達は怯えた顔。秀吉も忠勝も見つめるだけだ。
 何故、彼らはそんな風に見ているのだろう。首を傾げる若子に、秀吉はつぶやいた。
『お前は、あれを見て何も思わぬのか』
 その顔には虚無の色も垣間見えた。気づいてしまった若子は、不思議そうな顔をしながらも何も言えなかった。

 結局、秀吉が去っても若子はその訓練場で立ち尽くしたままであった。
 あの後も、ますます盛り立った少年は、休憩を挟みながらも奮い続けた。そして夕暮れになった頃、ようやく一息ついた少年に、男達が声をかけた。
『全く、貴方様はご自身で戦う気でありますか』
『戦国最強の本多殿もおられるというのに……』
『あぁ、石田殿も呆然としておられますよ……大谷殿まで』
『三成よ……』
 男達をかき分けるようにもう一人、少年が息を切らしながらも歩み寄った。
『そなたは、まだこんな所におったのか……そろそろ堺に着いた頃だと思うていたが』
『済まないな、紀之介(きのすけ)……どうやら儂を待っていたようだが、気付かなかったのだ……』
『気づかぬ振りでもしていたのだろ。全く、しょうもない男だ。そなたは小回りも効くからに、周りもよう見える……床几の将でも目指せば良かろうて』
『全くでございますよ。この方の勝ち気さは、あのお屋形様も警戒しておられるのですぞ。何度相手しても気が済まぬのですから、どうかお止めくだされ』
 少年達の言い合いに、男達も苦笑いで唸る。その渋い顔には躊躇いも含まれている。
『そうですな。その若さで大軍を率いる将なのです。それをも頼りにせぬ強さまで合わせ持つだけで、我らも十分頼りがいのあるお方でありますぞ』
『家康殿。今日の鍛錬に付きおうて頂き、真に光栄にございまする。次は戦場にて共に戦いましょうぞ』
 努めて明るく振る舞おうとする男達も去っていく。それを家康と呼ばれた少年は苦い顔で見つめる。
『あの者らも……昔は、違ったのにな』
『そなたは本当に懲りないな……まぁ、明日は大人しく賢人の軍議に参加するのが良かろ。それなら我も止めはせぬ』
 紀之介と呼ばれた少年は、呆れた顔をしながら、濡れた布を彼に差し出した……が、そこで、その彼は再び若子の方を尋ねる。
『三成……いや、どうした。堺へはまだ発たぬのか?』
『私の事などどうでもいい。先に聞きたい事がある』
 紀之介が身を退こうとしたが、若子は頭を振った。何も考えられず、呆然と見とれてしまった若子には、もはや自ら推測しようにも見当がつかない。
『……石田、三成か』
 だが傷口を拭っていた家康が、ようやく若子と紀之介の方へと向く。
『……戦国最強と謳われる、本多忠勝。儂もこやつのように強くなれたと思うか?』
 少年の目は手負いでありながらも、目だけは暁の明星の如く、残照の中で輝いていた。
『これでもな、どうしたら強くなれるのか、ずっと考えながら戦ってきたんだ』
『……本多に、聞けば良かろう』
 黙って見つめていた忠勝を、若子が見やった。その強さの秘密は未だに計り知れないものがあるから、この直向な少年の強さすらも分からないのだ。
『…………』
 忠勝はやはり黙ったままだったが、いつも傍に付いている少年の背後から離れた。
 彼はそのまま、家康を守るように前へ出た。さすがの二人も息を呑んだが、やがて家康が声を漏らした。
『……そうか』
 何も答えていないはずだったが、家康は何かに気づいたようだ。傷ついた体を厭わずに堂々と、自分から忠勝の隣へと進み出た。
 その様を見て、忠勝はただ頷くように頭を垂れた。家康の顔に小さな微笑みが浮かぶ。
『そうか……儂は間違ってなかったのだ。前へ、ただ前へ……皆と共に進めば、きっと秀吉公にも追いつけるのだな』
 嬉しそうに笑った家康は、忠勝の背に乗ると、そのまま城から離れるように飛び去ってしまった。その場に居辛く気まずそうであったが、青空のように晴れやかな顔だった。
『……やれやれ。油を注いでしまったか。はて……』
 これは不味い、と。紀之介も苦い笑みをこぼしながら、家康の背を睨むように、軽く会釈をしてみせる。
 暗闇で残ったのは、紀之介と若子だけである――結局、若子は立ち尽くしたままであった。
『……紀之介。貴様は誰に対しても気安くし過ぎだ』
 若子がようやく零したのは、愚痴である。それを聞いた紀之介は素知らぬ顔で目をそらすが、その道化も今は察せる。
『秀吉様……確かに、このような私が強国をお支えするなど、傲慢にも程があると見たのだろう』
 気づけば何でもない事だった。この戦国の世で、己はやはり幸せ者であったようだ。なんたって、頼もしい親友もいる……こんなにも愚かで弱い臣が奉行まで任せられようとしているのも、皆の支えがあるからだ。
『臣である者が皆と歩けなくて、何を成せるものか。だが……』
 しかしこの訓練場で見たものは、ただ独りで立った少年だけではない。若子は光無き暗がりの中で、一人空を見上げた。
 そこで見えた月は、欠けたる所もない満月だった。


「……私は、家康が心底苛立たしかったのだ」
 床几から立ち上がって、三成はまたつぶやいた。
「あの頃から……奴は、独りきりだったのだからな」
 本陣から見える三ツ葉葵の旗は、もはや曙光に揺蕩う朝霧のように、払いきれないほど翻っている。それは己の大一大万大吉の旗とは違うが、何処か似ているようにも思える。
「私とて、刑部のように上手く振る舞いたいと思った事は、たくさんあった。だがついにその期を逃してしまった」
「武器に頼らず、言葉で制しようと?」
 幸村は困惑しながらも何とか言葉を選んだ。いつものように傍にいなかった吉継なら、きっと何も答えてはくれないだろう。
 しかしそれでも良かった。彼は語ろうとも、その謀略によって己を語れぬ者である。あの若き頃の家康――東照権現のように、聞こうとする者にしか、彼の『言葉』は伝わらないのだ。
「……そうだ。私は今でも佐吉のままだ。この様で、今日という分水嶺を迎えてしまった」
 広大な関ヶ原の大地は、今にも飛び出してしまいそうな血気盛んな武将らで溢れかえっている。だが、それらを連れてきた大将たる三成は、まだ開戦の号令を発する事が出来ないでいる。
「秀吉様は最初からそれに気づいておられた。きっと今でも、天から未だに私を哀れんでいるだろう」
 その手で弔っても、未だに離れ難き心地だ――だが秀吉に一度も謁見していない幸村の方は、その言葉を聞いて目元を歪める。
「ご自身の手で豊臣殿を送られてもなお、歯がゆくて仕方ないのと? それは、真に心中をお察しいたす所存……」
「そのように、秀吉様を悼む者らはなかなかおらん。皆は全てを貪っただけだ……私は、ずっとそれに耐えてきた」
 己こそ重臣だという誇りのために強くなったとは、そんな事まで誰も信じていないはずである。だがただ一人でも彼を憎む者ならば、三成を嘲るだろう……家康は小賢しくもそのように多くの仲間を集めたはずだが、根底には今でも秀吉への揺ぎない畏怖があるのだ。
「私は不器用だ。不器用だから、いつも独りきりで戦っていた……それなのに、私は未だに人を信じ続けようとしている」
 そんな人望厚い家康を羨ましいと思う度に、己の不器量にすら疑いを持ってしまう。人の力こそ何よりの絆だと気づいたあの夜から、己は人の力を信じようとした。そしてそれに負けぬ己にならないよう、皆とも戦える術をも身につけた。
 しかし力こそ第一、と。言い続けてきた己が出来た事は、自身の大将の身を案じて已む無く降った若輩たる真田との同盟、そして怯えてばかりの東の諸侯に参陣を迫った程度に過ぎない。己は本当に皆の力を集めたかどうか、まだ確証が持てないのだ。
「信じる、でござるか……そのような事、某にも上手く出来ませなんだ」
 多くの戦を駆けてきた幸村は、そこで躊躇いがちな声音でつぶやいた。
「某とて怖いのだ。笑顔で出陣されたというのに、呆気無く倒れてしまう者とておられるのだ……固き主従を結ぶ者同士ですら、この有り様だ。赤の他人にそこまで気にかけられはせぬ」
「しかし、真田……」
「いや、皆まで言わなくても承知しているでござる。だからこそ、あえて自らが信じ続けようとしなければ、此の地はどうにもならないのだ」
 その言葉は儚くも、鈍い響きを持っていた。彼もまた、多くのものを失い続けて、それでも己の力を信じ続けてここまで来た。そんな彼らだからこそ着いてきた者達は、真紅の六文銭の旗を掲げ、間もなく若虎の本陣へ到着する。
「貴殿のやり方も、その有り方も悪くは無かろう。後は、その応報を受けるのみ……某は始めから非難するつもりはござらぬ。命を賭して貴殿の報いを見届けようぞ」
「……あぁ、頼む」
 頷けば、幸村は口元を引き締めて、背を向けた。三成の覚悟を見定めたのだろうから、その引き際すらも清々しさすら思える。
 だがそんな西方の大将に対する態度を、彼の後に続いた佐助は渋く見つめていた。むしろ歪んだ顔すら見せている。こちらは散々な思いをし続けたというのに、鑑みないのか……しかし今までの事を思い返せば、音に聞く真の忍頭の顔の理由も何と無く理解出来る。
 あの虎の若子の不安定な様は、甲斐の虎にすら後継と見込まれた若武者のものではないだろう。もしかすれば徳川に屈してしまった時の如く。
「……家康。貴様とは、このような絆を結んでいたとは思えぬがな。解(ほど)けてしまった今は、私は一体誰と結ばれているのだろうか」
 皆と対等には絆を結んでいないだろう。それだけは誰であっても確信を持ててしまう己がここにいる。
「あぁ、疎ましいのだ……私が貴様の顔を真っ直ぐ見てしまったから、斯様な戦が起こったのだ」
 ついに吐き捨てた愚痴は、口の端で篭って、声にもならなかった。
 家康の復讐と制裁を決めた時、同僚の皆を集めて宣言した。『己は今度こそ天下に知らしめる』と。
 それを聞いた皆は止めろと言った。散々豊臣に媚びへつらってきたからであろうが、何より強大になった徳川こそ優勢と見てしまったのだ。そんな彼らを心から信じられなくなったのも、きっとその時からだ。
 皆を力で屈服させれば、やがて全てを取り戻す大いなる時を迎える――あの時、秀吉を弔った時に頑なに誓ったのだ。
 だが、その後は……。
「真田……報いはもう受けているのだ……この戦こそ、最善の報いだ」
 慄きは止まらない。翻った旗の数だけ力が宿っているのだから、己の下でそれが奮われる――この右手の長太刀を抜きながらも、左手で握る鞘を指揮棒として振るのだ。今更ながら、己が成した事に歓喜を覚えてしまったのだ。
「間違ってはいない。そうだ、認めて良いのだ。これこそ絆の糸の端、その切れ目だと……」
「三成、様……」
 奮えるその背に躊躇いがちな声が響いた。しかしそれは結局の所、ただの呼びかけに過ぎなかった。
「その、とんでもない事になっちまったんです。陸路の立花さんは大津で立ち往生、海路の毛利さんは大坂で長曾我部に足止めされてるって……!」
 最近になって登用した島左近に似つかわしくない、意気消沈な報告である。ただ今回は三成もそんな事すら気にしている余裕は無かった。
「両将とも足止めを食らってるだと……馬鹿な、この好機に!」
 まるで天が己を呪っているようだ。しかしそれこそが、己が成した暴虐の応報である。
「大津の《蛍》めが阻んだというのか? あそこは水城だ……すぐに突破出来るだろう!」
「けど本戦まで足止めされるかもしれない、という報も届いてるんですよ……京極さん、鎮西一の武将相手にも対抗出来る策まであるみたいっすよ」
「その策、とは……」
「最初に何故か城下の町を焼き払っちまったらしくて……脅しのつもりか知らないけど、立花さんもどんな策か分からなくて、攻め切れない状態だって。もしかしたら本当に遅刻するかも……」
 そういえばかつての本能寺の一件で、中国を攻めていた秀吉の居城を一時的に占拠した《蛍》こと京極高次である。そのお陰で光秀が魔王織田信長を滅ぼすための、決定的な機会を得る事が出来た――しかし実際はこれもまた、病状が芳しくなかったせいで留守居をしていた竹中半兵衛による、明智の謀反を完遂させるがための妙策だ。当時、畿内で最も勢いのあった反織田勢力の豊臣の居城が明智に降されたとなれば、窮地の織田に対して援軍を出そうと思う者はいなくなるだろう……事実、信長に招かれて本能寺近くに滞在していた家康ですら、明智の底知れぬ脅威に怯えて三河に逃げ帰ったくらいだ。
 だが結果的に見れば、その報を聞きつけて電光石火の如く中国から舞い戻った豊臣軍が、たった十数日後に山崎にて明智軍を討つ――光秀本人の首こそ取り損ねたが、天下の逆賊とも言うべき彼を討つという大義名分まで得ていたがために、秀吉はすんなりと畿内の覇者に成り代わったのだ。
 そして最大の脅威であった魔王を確実に屠る機会を、その大義名分と共に無血で得られるならば、少しの間の占拠などお構いなしだと許容出来た半兵衛である。三成は『一度豊臣の城を穢した謀反人だ』と信じ切れていないが、この謀略すらも了承した『共犯者』ならば、傘下に加える理由にもなるだろう。
 とはいえ、高次が本当に秀吉の居城を落とそうと考えたなら、恐らく半兵衛も死ぬ気で返り討ちにしようと試みたはずだ。しかし高次が三成を裏切った理由は、その時の半兵衛の思惑とは重ならない――かつての謀反の再来を警戒した吉継と共に出陣したと聞いたが、高次は秀吉の大返しの如く大津へ戻ったのだ。西方に人質を取られていた手前、今回こそは三成の申し出を受けてくれるだろうと見ていたが、これもまた高次が叔父の浅井長政と同じく、破釜沈船たる叛意を貫いたからであろう。
「なんて様だ……しかし毛利の方は、何故大坂なのだ?」
 そんな彼に立花を宛がうのも癪なものだが、あの刑部の制止を振りきった上に不利な籠城戦まで行おうとするのなら、己はその愚行を罰する事こそ最善だ。にわかに荒くなる息を吐き捨て、三成は次の報告に耳を傾ける。
「毛利さんはどうやら、照日大鏡を大坂に設置しに行ってから関ヶ原へ向かう算段があったみたいっす。でもそこで長曾我部さんの待ち伏せにあっちまったんですよ。ついでにその近辺で静観しようとしてた畿内や瀬戸内の水軍共も加わっての乱闘騒ぎになって……俺達はあそこに構ってる暇、多分無いっすよ……」
「確かに……秀吉様は海賊らを取り締まれとお命じになられた。私がここで彼らを蜂起させぬよう計らえば……いや、まずは、全軍には毛利の援軍が無い事を伏せておけ。そうすれば士気も下がるまい」
「俺もそう思いましたので、さっきすれ違った虎の若子には注意しましたよ。あの忍は凶報だって吐かしてたけどな……」
 左近は忌々しくつぶやく。その秀吉が窮地の際に使えるようにと、かつて己が滅ぼした安土城の残骸から大坂城を築いた事は知っている。だだ毛利も長曾我部と同様にあの中国征伐で手痛い制裁を加えられていたから、豊臣には相当な恨みを持っているはずだ……が、今回は当初から西方の軍を援助してくれている。
 あの《謀神》――毛利元就の本意は三成でも未だに計り知れないものだが、あの元親が本人を制しているのは何よりの凶報だ。さらに秀吉に泣かされた瀬戸内の水軍らも加わっての乱戦となれば、元就が関ヶ原で打つはずの最初の一手が欠けてしまう。また大坂の防御にと照日大鏡を設置したようだが、瀬戸内の水軍相手では満足に操作も出来ぬだろう。
 しかしあの常磐の一文字三星が見えないとなると、諸侯は彼の厳島の采配が得られぬと不安がるはずである。この真実ばかりは絶対に伏せた方が良さそうだ……と見ての下知だったが、佐助の耳にも入れば、彼が徹底してくれるに違いない。豊臣にも一目置かれる彼なら、瀬戸内の情勢も良く知っているだろう。三成は顔を引き締めて頷く。
「ならば良い。それで今は十分だろう……それからあの天海を監視する必要もあるか、確証したのだな」
「まぁ何とか生きて帰ってこれましたけどね……それも伏せた方が良さそうです」
「そうだな。奴ならばこれぞ『反逆』だと見せつけるだろう」
冷笑を浮かべれば、左近も同じように声に鋭さを含ませる。
「結局俺があの噂の大返しみたく急いで来れたのは良いんすけど。そうしないと《謀神》並みの手も打つかもしれない、か……あぁ、でもそいつならきっと、あの鍋将軍の鍋が空になる前には本陣から出るかもしれないっすね。やっぱり主の方はまだ迷ってるみたいだし」
「金吾では荷が重すぎる判断だ。力ずくだが、ここで抑えれば天海の奴も逃亡の機を逃すだろう……刑部にもその時は加勢を頼むとしよう」
 吉継の事を考えてみれば、彼もきっと肯くはずである。彼もまた、三成がもう一つの災厄というべき予見をしたと悟ってくれるだろう。
 愚将にも程がある小早川秀秋はともかくとして、あの天海がこれを知れば、結果的に劣勢となった三成の下知に反する方が得策と見るだろう――海上の開戦の伝令となった左近がここまで五体満足であったのも、同じく策を弄する者であり、尚且つそこまで『読める』彼を最初から疑っていたからだ。あの元就であっても、この急報こそ三成に届けなければならないと見るから、長曾我部の伝令の如く始末されないように計らうはずである。
 だが元就ですら得体が知れぬと見て遠ざけたほどの男なら、事前にその庇護を滅する事が可能であろう。そしてこの態度こそが小早川軍の実に分かりやすい『反逆』にもなりえる。本来は秀秋が止めるべき謀反だろうが、彼とて豊臣軍との浅からぬ確執があったのだ。それは対立していた三成も良く知っているし、あの天海なら押し切る可能性もある――そう、何処ぞの寺から出てきた破戒僧だろう《彼》なら、尚更に。
「……そうだ。刑部はどうした? 大津があれでは、同行していた奴も逗まっているのではあるまいな?」
 ここまでの流れは失態続きだから、いよいよ波瀾に満ちた大戦になりそうだ――今頃、家康ならその朗報に舞い上がっているだろうと思いかけた三成は、もう一つ左近に尋ねた。
「詳しい事は俺も知らないっすけど、大津征伐は立花さんにお任せして来たみたいですよ……ほら、あそこに!」
 左近が下方を指さす。大一大万大吉の旗に、象牙色の対い蝶が入り交じる。
 三成にとって、あの紀之介こと吉継は、今でも猛将に相応しい器を持つ男だ。病を得るまでは、彼もまた三成と共に太刀を振るっていたのだ……結局あの時の慎重な彼ですら、豊臣の副将へ上り詰めるために無理をしてまで闇路を駆け抜けてしまった。その執念は容易く振り解けまい。
 それと同じ頃、東方より真紅の六文銭と真朱の武田菱が西方へと雪崩れ込むように到来する。にわかに紺青の旗が鳴動し始めているとなれば、独眼竜もこれ以上は辛抱ならないだろう。吉継の到来に気を取られた三成であったが、何とか口元を引き締めて命じる。
「……左近。お前は陣頭指揮に当たれ。島津と共に出陣すれば、お前も少しは楽出来るだろう」
「杭瀬川の延長戦って訳ですね。了解っす! あ、三成様!」
 命からがらやっと辿り着いたばかりの左近であったが、それでも快く引き受けてくれた。しかしそこで何かを思い出してか、立ち止まる。
「間違っても、家康の奴と刺し違えるような事考えないでくださいよ! 貴方は豊臣の力の証、その成果なんですからね!」
「……あぁ、勿論だ。私は……」
 まだ、この言葉は本心では言い難いものだ……しかしここで言わねば、短い付き合いの彼の信頼を裏切る事となる。震えそうになった拳を握りしめながら、三成は大きく頷いた。
「勝ってみせよう。豊臣の左腕、石田の名に誓って」
「その言葉、ちゃんと覚えておきますからね……あぁ、そうだ。陣頭指揮ならやっぱりあの方が一番なんですからね。大谷さんも手が空いたらこっち来てって言っちゃいますから!」
 図々しい事を言いながらも、左近は己の頭を突いた指で、今度は関ヶ原の中央を指し示す。諸侯の援軍にも異論は無いはずだから、吉継も潔く戦場を駆けようとする左近の手助けをしてくれるだろう。
 誰にとっても、この一戦はこれからの争いの火種にもなるやもしれない。左近を見送ったついでに空を仰ぎながら、三成は緩んだ顔でつぶやく。
「今から希望を吐露しても、早いだろうが……行くぞ、刑部」
 強気な同僚の独言を聞けば、吉継はどうせ聞かぬふりをしてみせ、謀略を企ててくれるだろう――その合間、朝霧へと傾く薄き月輪を見下ろしながら、三成は少しだけ考えてみた。
 もし己が、秀吉を支えようとは思えぬほど、愚かな佐吉のままだったら……。
「……皆と強くなろうとした貴様とは、絆を結べなかったかもしれんがな」
 そしてまた、己とて絆の力を信じていたかもしれない。長い鬱屈の日々から脱却した今、その刃を振り上げる先がようやく見えてきたように思えたが、躊躇いは未だに胸中に残ったままだ。
「滅してやる、家康……私は貴様のように緩いだけの子も励むだろう、そんな強き国を作りたいとも思っていたのだ。貴様なら、それでも受け入れようとしただろうが」
 それでも惜別の言葉をつぶやいてみるも、この距離では届くはずもない。
「そうだとも。私は、あの場で垣間見たのだ……」
 なおも繰り返そうとしたつぶやきは、かつて言いかけた事と同じものであった。だがそれも、己の疾走と開戦直前の鳴動で掻き消される。
 己の足で駆けて、三成は戦場へと降り立った……そしてふと、そのつぶやきが誰かに聞かれなくて残念だったという奇妙な哀惜すらも感じてしまう。
 それこそ大きな矛盾を含んでいたものだった。だがそれとて今更気づいても遅いものだから、目を閉じて、戦前の刹那にある虚無へと心を没ませる。



 ――皆と歩もうとした彼の心にある、例え死してもなお滅せぬだろう力(きずな)を。
 これから始まるのは、それを正しく見出してしまったがために、かつての朋の縁を寄り戻して豊かな国を創りたいと願って止まない、愚かな男の戦いだ。



<了>



▼後書き
 旧暦関ヶ原とサイトリニューアル記念として書いた西軍な話でした。
 開戦直前の雰囲気話ともなってしまいましたが、ここまでの流れやこれからの展開については長編でやるべきでしょうな……うん、視野には入れときます。
 ちなみに日蝕とは対な話となってます。こういう形式は昔もそれっぽいのやってたけど、やっぱりしんどいね。(白目)

 2014/09/15

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