二


 尼子詮久にとって、多治比元就との出会いは衝撃的なものであった。
 若くして砂塵に閉ざされた月山富山城の主となった詮久であるが、それは父の政久が尼子宗家の家督を受け継ぐ前に亡くなったからである。そんな悲劇の後だから、祖父の経久は嫡孫を尚更可愛がってくれたものだが、我ながら甘やかされて育ったように思えてならない。
「あきさま! しかのすけもまいりまするー!」
「いや、今回は俺と太郎左衛門だけで十分だ……鹿之介は留守を頼むぞ」
 そしてもう一人、己の周りには子鹿の如く飛び跳ねる者もいる。尼子の重臣、山中久盛の子である鹿之介だ。
 幼くも好奇心旺盛で、他人にも物怖じしない強い子だ……しかし本当に忙しなく動く子だから、詮久にとっては己の近習というよりも、やんちゃな弟分にしか見えない。
「鹿之介。今回は隠密に動かねばならないのでな。そのうち、お前にもそういう隠密行動の極意を伝授してやるから、まずはこの間俺が教えた『秘技・隠れん坊』をおやっさんに見てもらえ」
 不満そうな顔の鹿之介を宥めるのは、おどけたように笑う男である。詮久にとっては兄貴分とも言えるだろう、若き参謀たる亀井太郎左衛門秀綱だ。
「あれが出来ねば、隠密行動はとてもでは無いが出来ないぞ……俺が帰ってきたら試験をするからな。おやっさん、頼むぞ」
「ぐぐう」
「わわ!」
 なおもごねようとした鹿之介の襟を、背後の牡鹿がその立派な角で引っ掛ける。そして半ば宙へ放り投げるようにして鹿之介をその背に乗せてやる。
 この『おやっさん』は気がつけば月山富山城に居着いていた迷い鹿である。だが頭は良いようで、特に幼い鹿之介を弟子のように面倒を見ている。鹿之介もまた、そんなおやっさんを慕っているようだから、いきなり背に乗せられても楽しそうだ……幼子はやはり単純である。
「よしよし、鹿之介を頼んだぞ……あと、鹿之介が砂に埋もれる前にちゃんと見つけてやれよ」
「ぐう」
 賢い牡鹿は秀綱にも頷くような仕草を見せ、悠然と去っていく。鹿之介はその首につかまりながら、詮久に手を振った。
「あきさまー! おみやげたのむっすー!」
「おい、主にお土産頼むってどういう神経してるんだ……ったく」
 そんな無邪気な幼子を、詮久は罵倒しつつも手を振って見送ってやる。この調子で育ったら良くないだろうと思いつつも、今はおやっさんの教育に任せる他がない。
「まぁしょうがねぇな……安芸の土産、何が良いと思う?」
「本当に買う気ですか」
「仕方ねぇだろ。爺様とて、慕う者を大切にしろって言うし」
「あの方はその慕う者に色んな物を与えしまうほど気安過ぎなのですぞ。殿もご親戚方から散々忠言なされているでしょう」
「奴らは自分じゃ止められねぇから、当代の俺に言ってるんだよ。はーあ、めんどくせぇ」
 真顔で返した秀綱に、詮久は本音を交えながら放言する。
 本当に面倒なのだ。祖父が段違いの傑物であるがゆえに、周りがついて行けぬのだ……そして祖父がそんな差を埋める前に、己の領土をさらに広げてしまった。
 己はこれから、父の代わりにその差を埋めねばならない。砂の如く埋められれば容易いものだろうが、勿論それほど簡単に事が運ぶとは思っていない。
「さっさと片付けるぞ太郎左衛門……相手はあの爺様も認めた《乞食若殿》だ。そう容易く返して貰えねぇぞ」
「今回はこちらが奇襲を仕掛けるはずですが、それをも見通している……とでも?」
「多分な。あの目は爺様に良く似ていた。気を抜けば俺もお前もそこで終いだ」
 二人が向かう有田城は、毛利領からほど近い所にある。尼子寄りの国人、吉川国経に会うためであったから、本来ならここまで警戒もしなくて済む話なのだ。
 だが彼こそが、あの元就の舅なのだ……今まで表舞台に出なかったからこそ真価を発揮出来なかった元就である。己を外に出す大胆さを覚えてしまったから、舅すらも調略しようと企んでもおかしくはないのだ。
「アイツは将軍の若君にも喧嘩を吹っ掛ける奴だ。しかも計算づくでな。そんな奴をここで放っておく訳にはいかねぇって、お前も爺様に言われてるから動いてるんだろ?」
「えぇ、まぁ……高橋の御仁も、やはり同じ事を思われておりましたからな」
 安芸方面の調略を経久から任された秀綱は、歯切れ悪い声で答える。しかし多くの謀略を企てている時、彼はいつもこのような曖昧な態度を取るのだ。だから詮久も深くは問いただそうとする気もない。
「『奴を当主に据えたら、安芸が奴の物になる』と……尼子にとっては、その上で毛利と手を組む算段を取る方が容易いものだが、あの彼は恐らく大殿や大内の義興殿らと同じ所から物事を見ているようで。そんな奴が本格的に出てきたら堪りませんよ」
「同じ所から、か……乞食若殿なんざ言われてたくせに、何処でそんな事を覚えたのやら」
 詮久は舌打ちをしながら唸る。秀綱の言う通り、将軍謁見まで考えた時点で、彼の謀略は自身の立場に釣り合わぬほどの範囲にまで敷かれている。そしてそこまでの視座を我らが尼子の当代(詮久)は未だに持ち合わせていないのだ、と。
 そこまで言われたら、この不届きな家臣に主としての威厳を見せねばならない。だが当の秀綱は、ぶつぶつと己の謀略を思考するよう呟いている。
「家臣とて幼い幸松丸殿を据えるよりも、先の二代と違って見栄えの良い三弟を挙げるべきだと言うているのにな……やはり志道と福原は邪魔だ。こやつらも早く潰さねば……」
 物騒な事も考え始めているようだが、詮久は邪魔をするつもりなど無い。謀略を企てるのは秀綱だが、それを実際に成して責任を取るのが己だと理解しているからだ。そうでなくても、ここで先達からより良く学ばなければ、あの風雲児たる経久に一生かかっても追いつけない。
「……くそっ」
 そんな焦りもある中での、乞食若殿こと元就である。この彼とてまだ若い方だが、兄以上の出来と専らの噂だから厄介だ。しかもあの経久すらも自ら動こうとするほど注目しているのなら、当代としての矜持を冷静に保ってはいられないのだ。
 ようやく頭が冷えたのも、有田城に着いた頃だ。こんな様で見っともないと、大きく溜息をつきながらも入場しようとした時、見覚えのある者が詮久の下へ駆け寄った。
「秀綱様っ……!」
「どうした。何かあったか?」
 秀綱が眉を顰めて迎えたのは、彼自身が放った間者だ。近年の安芸の動向が怪しいせいか、情報収集を兼ねて放っておいたのだ。だがその間者は吉川の領地でのうのうと情報収集していた割には、ひどく動揺している。
「まさか、この日に参られたとは……今朝、突然に多治比殿もこちらに参ったのですぞ……!」
「噂をすればなんとやら、か……鉢合わせとは嫌なものだ」
 秀綱は渋い顔を見せるが、詮久はもはや先程までの表情を保つ事が出来ない――あの彼は、こちらの動向すらも読んでいた。牽制に来た尼子に対して、元就もまた自ら出向いてきたのだ。
「……やりやがったな、あの野郎」
 詮久は周囲に構わず罵倒する。尼子にとって、この支城は武田に取られてしまってもまだ良いものだ。だが元就にとっては、この有田城こそ対武田の最前線である。これを越えてしまえば、己の居城はもう目の前だからだ。
 実際、なりふり構ってはいられないのは元就の方である。とはいえ、幕府から不干渉を命じられている以上、詮久も吉川に対して強く申し出をする事も出来ない。この状況で互いが出来る事と言えば、相手の出方を伺う程度なのだ。
「おや。散策に出てみれば、見てはいけないものを見てしまいましたなぁ」
 と、そんな時だ。間者の背後から、ぬっと太い針が飛び出した。ひっと呻いた間者の首筋をなぞるように突き出されたそれに、詮久もつい退いてしまう。
「な、なんだてめぇ!」
「小輔次郎様の話に出ていた尼子の当代、ですな。某とはこのような顔合わせになってしまいましたが、どうかお許しを」
 針を退きながら、背後の男が滔々と言いのける。緊張が解けた間者は、その場に腰を抜かしてしまう。秀綱も腰の刀の柄に手をかけようとしたが、寸での所で堪えたようだ。気取られた事を恥じ入るように呻く。
「志道、殿……ですな」
「いかにも。貴殿は恐らく……亀井の秀綱殿でありましょうな。尼子にもなかなか見所ある若者が多いようで羨ましいものだ」
 笑いながら、志道広良は手の内でくるくると針を回す。よく見れば、その針には輪がついており、それを中指に嵌めているらしい……暗器の類であろうが、武器の種類に明るくない詮久には判別がつかない。
 だが広良の名については良く聞いている。志道は元より毛利の庶家であり、執権である坂氏を凌ぐほどの指導力を持った家である。そして父の元良(もとよし)からその勢いを受け継いだ広良は、興元の執政でありながらも、弟の元就の後見をも務めるほどの有能な家臣となった。若い興元が足利将軍家の臣として活躍していた事を鑑みれば、この彼の政治的手腕は並のものでは無いはずだ。
「貴方に比べれば、私もまだ若輩者であります。本日は、如何ような理由でここへ参られたのですかな?」
 畏れを抱きながらも、なお噛み付こうとした秀綱。対して広良はまだ穏やかな笑顔を見せていた。
「貴方方もご存知でありましょうが、毛利はこれより武田との戦をする事になりましてな。本日はその備えをする……というのも本当は建前で、久様の懐妊のご報告に参じたのですよ」
「か、懐妊……とは。それは、めでたい事で」
 拍子抜けしてしまう秀綱だが、詮久は冗談のように思えてならない。あの冷徹な元就が、女を大事にするような性質だとは考えられなかったからだ。
「小輔次郎様はあの境遇のせいで、気むずかしい方でありましたからな。けれど久様に対しては自ら心を砕くほど大事に想われているのです。縁を持ってくれた尼子には感謝するばかりでありますよ」
「……それで、俺らを見逃そうって思ってるのか?」
 嬉しそうに語る広良に、詮久はなおも警戒しながら言い放つ。
「めでたい所で悪いが、俺はそう思えねぇぞ。あの謁見の後に、アイツとちょっとばかり話をした仲でもあるからな……」
「ほう。そこまで仲がよろしかったのでございますか……あの方は気に入った相手でないと、まともに話をしてくれない方でありますからなぁ」
「……そ、そうか」
 どうも己は、あの男についてまだ知らない事が多そうだ。だが考え方を改めようとしてみるも、あのいけ好かない目が頭にちらついて離れない。そんな詮久の苛立った顔色が気になったのか、広良は詮久をじっと注視しながらつぶやいた。
「どうでしょう。ここは、小輔次郎様とお会いになられては」
「は?」
「折角参られたのですから、良い機会になるでしょう。無論、双方ともに口喧嘩で留めて頂きますぞ」
 その提案に冗談じゃないと罵倒しそうになった詮久であったが、秀綱の方が急に笑みを浮かべて頷いた。
「それは良いお考えで。小話程度なら、将軍家の御下命に逆らった事にもなりませんでしょう」
「た、太郎左衛門……」
 勝手に話を進めるなと言いかけようとした口を閉じる。秀綱の目は笑いながらも、口の端では別の事を声に出さずつぶやいていたのだ。
 ――殿。あの《狼》を超えたくは無いのですか?
 その笑みは主(詮久)に対する挑発だった……それに気づいてしまったのなら、嫌が応にも乗らぬ訳がない。


 有田城での会見は今思い返しても実に心地良い一時であったが、これからの事を考えるとすぐに憂鬱になるものだ……元就は嘆息しながらも尋ねる。
「ここの備えも万全であるな」
「無論、ここは恐らく決戦の地になりましょうから……されど小輔次郎様。貴方様の備えは『それ』でよろしいのですか?」
 広良の声に若干呆れた響きも混ざっている。しかし元就はその予想通りに反応に動じるまでも無かった。
「我は謀略で戦を制する。故に我の備えは『これ』で良い……重装備ではいざという時に動けぬからな」
「それでは此度の戦で生き延びたら、もう少し重い装備でも動けるよう鍛錬を積んで頂きますぞ。姿を欺くにしても、矢に貫かれては一溜りもありませぬ」
「……考えておこう」
 口布の下で引きつった口元を知られぬよう、元就は顔を背ける。稚児のような軽装備では、武将としての威厳も保てぬだろうとは承知の上だ。しかし生来の細身を今更甲冑で取り繕った所でどうにもならないし、元よりそんな下らぬ矜持を見せつけるつもりなど無いのだ。
 人にどんなに恨まれようが構わない。あらゆる策を使って安芸を安寧にする事、それだけだ……今は侮られようとも、生き延びた者が勝つ事こそ戦国の理である。
 久方ぶりに猿掛城に帰ったものの、休む暇はなかった。身重の久を置いていくのも気は進まなかったが、現状を考えればこれが最善だ……元就は郡山城のある南方を見やりながら、笑顔で見送った妻を想う。
 今の己では明らかに力量不足である。女子供を守る以前に、幼い幸松丸の後見役になった己を守りきるためには、それに集中しなければならないのだ。
「予定では、何時になる?」
「既に城より出陣しているとの報がありますゆえ、数日中には猿掛へ参りましょう」
 広良は渋い顔で北方を見やる。有田城は元々、武田元繁の影響下にあった城である。それを奪いとった方こそ毛利興元と吉川国経であったが、興元は国経の助力の恩に報いるべく有田城を譲った経緯がある。
 そしてしばらく経った今、元繁はあっという間に有田城を奪い返し、眼前の猿掛城を睨み据えている状況だ。項羽なぞと言われるほどの戦上手の元繁がよりにもよって初陣の相手となるのだが、しかし元就は落ち着いた心境にあった。
「……そうだな。そろそろ頃合いか」
「頃合い?」
 深く頷いた元就に嫌な予感を覚えたのか、広良の顔が強張っている。だが元就はそれを無視して、傍に控えていた近習を手招きして告げる。
「城下に詰めている者らで斥候隊を編成するゆえ、備えをさせろ。それから我が馬も出しておけ」
「お、お待ちを! 貴方様まで向かう気ですか!」
 唐突な出陣命令に広良が取り乱して叫ぶ。だが同じように驚く近習に『早く行け』と追いたてた元就は、真顔で答えてみせる。
「そうだ。貴様はここで後から来る援軍を整えておけ。我が出れば、彼奴らも血相を変えて駆け出すだろう」
「いやしかし、みすみす貴方様を危険に晒す訳には……それに、このように唐突な出陣では足取りも乱れますぞ」
「貴様は我よりも戦を経験をしているというのに、何の捻りもしておらぬようだな」
 ふんと唸りながら、元就は新たに近習を呼ぶ。作業のような下命をこなしながらも、元就は広良の問いにも律儀に答えてやる。
「これは武田との戦ではない。我が謀略の一端に過ぎぬのだ……邪魔する者を燻り出すだけで済ますつもりなぞ端から無いわ」
「では、どうするおつもりですか。某にも明かさぬ気であるのなら、これ以上のご助力は出来ませぬぞ」
「貴様は我を何が何でも止めようとするからな……今日までに斥候共の支度をさせるのも一苦労だ」
「……そうですとも。貴方様にはこの城での、『前科』がありますからな」
 その『禁忌』を言い放った広良の顔が冷えてゆく。だがそれは元就も同じだ。呼吸すらも緊張で張り詰める。
 口布のせいで一層息苦しくなるが、それでも元就は声を振り絞った。
「……彼奴らには考える暇など与えぬ。窮地で足取りを乱れさせれば、我が命に縋るように従うだろう……そしてもしも自ら動こうとする者がいるとなれば、最初から別の目的を携えて臨んだ者と見なす事も出来るであろうな」
「そうして、ご自身の臣をみすみす死なせるおつもりでありますか? 貴方様とて窮地にいるのは同じでありますぞ」
「全てを知る我は、己の身を守れば良いだけだ。だからこそ守りきれぬ久を郡山に残したのだぞ」
「では、ここで某が貴方様を裏切って、奥方様を人質にしたら如何するのですか?」
 広良の手が袖に隠れる――付き合いの長い元就であるから、その袖の下の手甲に仕込まれている点穴針(てんけつしん)を装備した事くらいは察せるものだ。
「そこまで案ずる事はない。久は我が家内だ……その時は我が与えた匕首(あいくち)を抜けと命じている」
「見殺しにするおつもりか!」
 一喝した広良の手が、その刹那に閃いた。点穴針――大陸では峨嵋刺(がびし)とも言われるそれは、手に持って刺突するだけでなく、投げつける事も出来る暗器だ。無論、安芸の情勢を適切に制する宰相に相応しく、人体の点穴(急所)も心得ている。
 だがそれに怯える元就ではなかった。針を投げつけられたのはこれが初めてであるが、それも広良が説教に針を使わなかっただけの事である。しかしここは実力行使してでも止めなければならない場面であるとは、広良も理解してやったのだ。
 ……そう、元就とてそのくらいは事前に察している事だ。どの点穴を狙ったのかは知らないが、トスンとその胸に刺さった針を見て、広良の方が顔を歪めた。
「な、何故避けなかったのですか……」
「避ければ、貴様はその次の手で確実に我が動きを封じる点穴を狙うであろうからな。我は確かに武芸に不得手であるがゆえ、胸を狙った次の手が読みきれなかったのだ」
「……胸を狙うとまでは、読めたのですか?」
「そこを狙われたら、人は背を向けてでも避けようとする。そうなればより良き点穴を貴様に晒す事にもなろう」
 袖くくりの紐を解きながら、元就は薄く笑ってみせる。
「陽動は謀略の基本の一つ。我にそう教えたのも貴様であろうに」
「……まさか、貴方様はいつも『それ』を着込んでおられたのですか?」
 元就の着物の下を見た広良は、渋い顔で唸る。普段の武芸は嗜み程度しかやらないせいで、いつも着膨れしがちな元就である。だからこそ、着物の下に白鉄(しろがね)の甲冑を纏う事が出来るのだ。
「日頃貯めこんでいた銭で、特注に作らせたのだ。あの《姫若子》は庭に花を植えた方が良い(商人を味方につけろ)と言うていたが、どうせ植える(注文する)なら普段も食える(使える)方が良いであろう」
「貴方様は、本当に頭の回る御方でありますな。されど、某はそれで納得致しませぬぞ」
「そんな事はどうでも良い」
 近習の一人が駆け寄ったのを見つけて、元就は広良から顔を背ける。何だと広良がその視線の先を追う。
「……あれは」
「貴様は我の軍師でもある。されどこれしきの事で浮足立つならば、別の者を選ばなくてはならぬ……我にその手間を取らせる気か」
 近習が携えたのは弓矢である。だが矢の方は丁寧な包みが施されたもの――あの厳島で手に入れた、三本の矢の一つだ。
「この矢は出来る事なら、武田の元繁にくれてやりたい所だ。貴様なら、その算段を講じてくれるだろうと思うていたが」
 手渡された矢の包みを解きながら、元就は広良の顔色を窺う。簡素だがしなやかな征矢が現れた時、広良の顔はさらに固くなる。
「その矢を射掛けるために、元繁殿の傍まで寄るおつもりでありますか……軽武装であるのも、ただ床几に座して待つ謀将になるのでは無かった、と」
「我とて早うそうなりたいものだが、まだ先の話であろう。むしろ貴様は『矢面に立つかもしれないから武芸をせよ』、と言う質のはずだ」
「……そなたはもう良い、下がれ」
 歯を食いしばるように、広良は立ち尽くしていた近習に声をかける。逃げるように駈け出した近習が消えた頃を見計らって、広良は厳しい目で元就を睨みつけた。
「……貴方様は、杉大方が猿掛城を去った本当の理由を、未だに察しておられないのですな」
「……御方は、このような我が嫌いになったのであろう。そのくらいは分かる」
 己が成してしまった『前科』については、十分に分っているつもりである。元就は視線を外そうと顔を背ける。
 横暴を極めた井上元盛をどうにかしなければならないと、あの頃はそればかりを考えていた……その果ての『成り行き』については、これ以上の言い訳をするつもりはない。
 だが今の元就でさえ分からない事が一つだけある。あの残照を背にして浮かべた、最愛の人の笑顔だ。
「そうではありませぬ。あの方は……」
「もう良い。その話は此度の戦を生き延びてから聞こう……今はそれどころではない」
 広良の否定も気になる所だが、今は正に戦時だ。胸に突き刺さったままの針を抜きながら、元就は一息つく――とっさの判断であえて受けきったとはいえ、投擲された針は新品同然の甲冑に突き刺さるほどの威力を持っていた。その衝撃は精神的な苦痛すら伴うものだが、何とか胸の内に留める。
「既に舅殿とも算段はついている。先に我が斥候として動き、武田をおびき寄せる。それと同時に郡山に待機する小輔三郎らも招き、合流した所で初戦を制する。向こうとて我らが先に出るとは思えぬだろうから、まずは斥候を出すはずだ」
「斥候を叩き、最初の意気を挫くと……確かに安芸の武田は甲斐の同族と同じく、騎馬による特攻を得意としますが……ふむ、そういう事ですな」
 元就の意図した事をようやく察したようである。苦い顔ながらも、広良は正答を言い当てた。
「つまり、貴方様はご自身でもどうにもならぬ事態に、あえて混乱を招こうとしておられるのですな。そして今でこそ優勢な武田から、戦の主導権を握るおつもりか」
「そうだ。数の多い彼奴らが騎馬で猿掛を荒らし、有田と同じく包囲してしまえば、こちらの打つ手が無くなる。なれば先に出て、彼奴らの『道』を踏み荒らしておくのだ。そうなれば自慢の騎馬の足も活かせぬだろう。その隙に郡山の援軍を待つ」
「先に援軍を呼ぶ算段はなされておられなかったのですか?」
「迂闊に急がせれば、向こうの出陣が早くなるだけ。この間こそ肝心なのだ……彼奴らがまだ出て来ぬのは、こちらの出方が分からぬからだ」
「何故、そう言い切れるのでございますか?」
「あの武田とて足利の将軍家に干渉した我を警戒していよう。当然ながら事前に間者を何人も送り込んでいる。ゆえに彼奴らには偽の情報を掴ませておいたのだ。紙切れ一つで出来る事はこちらにも多くあるのでな」
「……郡山で部屋に引きこもっておられたのも、それを一人でこなしていたから、ですな」
「人に整理させていては目立つであろう。そのうち、貴様にもその手伝いをして欲しいものだが」
「……やれやれ」
 元就との言い合いのような質問の合間に、広良は溜息をつきながらも、持っていた点穴針をしまう。
「将軍家との謁見はあくまで各家に対する牽制、そしてこの急な出陣は戦場の状況を転変するためのものでございますか。貴方様が自ら動くのは、いつも総仕上げの時なのですな」
「そこまで分かる貴様だから頼ろうとしているのに、いつも説教ばかりだ。これ以上制するのであれば、我は貴様を切り捨ててでも一人で行くぞ」
「いいや。それはなりませぬな……一人でそこまでやるのは面倒でございましょう。某も良い歳ではありますが、某にしか出来ぬのであれば何なりと申し付けてくださいますよう」
「……貴様の説得は、もう少し手間がかかると思うていたがな」
 あれほど言ったばかりなのに、意外とあっさり片が付きそうである。何か下心があるのかと思った元就であったが、広良は五十路に差し掛かって渋みの増した顔で笑みを作った。
「亡き大殿様も人にご相談されぬ質でありましたゆえ、一人で酒に溺れるしかなかったのです……大方様も貴方様一人に罪を背負わせぬよう、某に申し付けましたのでな」
「……貴様は知っているのだな。御方の居場所を」
 この彼を頼りづらいと思ったのも、三年前に突然城に来て、あろうことか助力をする代わりに対等に物言えるよう誓文書を書かせたせいである。だから大方の捜索についても話をしようと思えなかったのだ。
 だが彼の口から思わぬ事が出て、元就はつい息を呑んでしまった。彼女は確かに、城主の側室として何も出来なかったと愚痴を吐いていた事もあったのだ……きっとその事を指しているに違いない。
 しかし今、ここで広良に問い詰めようとも思えなかった。これは彼女本人に聞くべき事だ。
「福原に捜索を頼んでいたようですが、某には何も言わぬとは。ゆえに今までは『某が後で教える』と言い含めていたのですよ」
「……貴様は本当に意地が悪いな」
 あれほど難航していたのはそのせいか。良からぬ真実すらもあっさり暴露した広良であったが、思わず睨んだ元就の手の内にあった矢を取り上げて言った。
「この矢は、援軍が来るまでは某が預かりまする。貴方様はそれまで、猿掛の城下で武田の斥候を食い止めますよう。決して、我らが到着するまではその外へ出てはなりませぬぞ……国経殿も猿掛に一度お招きくださいますように」
「無論そのつもりだ。その足で有田まで行くほど我は無謀でもないし、始めからその余裕もなかろう」
 ついでに弓も押し付けながら、元就は頷く。
「この猿掛を荒らそうとする者らの事だ。付近の被害なぞ考えもしないだろう……だが、先に被害が出来ると知る事が出来れば、せめて民は逃せる。とはいえ、それも既に始めている頃合いだが」
「ならば急がせた方がよろしいですな。恐らく先に出るとするならば、熊谷辺りでしょう。あれも城下に放たれれば手がつけられませぬ。民の招集は某がやりましょう」
「頼む……ついでに城の門も開けてしまえ。どうせ何も無い城だ。雑魚寝でも構わぬのなら好きに使わせろ」
「一度は横領されたゆえ、もう構わぬとおっしゃるのですか?」
「……猿掛の民は、昔、世話になったからな。借りは早々に返すのが良いものだ」
 かつて猿掛の領民は惨めな御曹司を世話していた杉大方を哀れんで、少ない蓄えすら差し入れをしてくれた。これもあって元就はその日を生き延びたようなものである。民を大事にせよと教えてくれたのは父であったが、その報いを目で見て知る事が出来たのは彼女のお陰でもある。
 一人で戦える事は出来ても、生きる事は出来ないものだ。一人でも背負うと決めた元就であるが、早速それもぶれつつある。難しいものは何とか出来るだろうが、出来ないものならどんな策を使ってもどうにもならないものだ。
 だがその逡巡(しゅんじゅん)を察したらしい広良は、迷い子を導くような慈悲深い笑みを見せた。
「それは勘定で表す事ではありませぬ。領民は人として、当然の事をしたまでです。今の貴方様も人として皆を窮地から救おうとしておられるのですよ。城主なれば、それを履き違えてはなりませぬ」
「……貴様は、やはり説教ばかりだな」
「これを説教と見なしているのなら、某の言いたい事は理解したと見てよろしいですな?」
「これ以上言わせるでないわ。我は行くぞ……いや待て」
 是(分かった)と言うのもむず痒くて唸った元就だが、もう一つと広良の顔を見やってつぶやく。
「我がこのまま死ねば、先程の誤解が久にも伝わろう……我は、久に自死しろと命じてはおらぬからな」
「では、どのように仰ったのですか?」
「……自身の事で手一杯な父の代わりに子を守れ、とな」
 結局、久には護身用の匕首しか用意できなかったが、彼女は笑顔で承諾してくれた。それすらも不甲斐なさばかり感じるものだが、広良はうつむく元就に頭を振った。
「それも恐らくは誤解でしょうな。貴方様は自身を守ろうとはしておりませぬよ。自身を守るのなら、初陣の身でありながらも出陣をしようとは思わぬでしょうから」
「だが……」
「貴方様が自らお出になるのは、貴方様が守ろうとしている者達のために、でございますよ……それをもう少しご自覚して頂ければ、国主としても相応しくなられましょうに」
「……そういうものなのか?」
 こんな自分の事ばかり考えていた己に、そこまで大層な事を思う事すら間違いだ。しかし広良は迷う元就にさらに重ねて言った。
「では、貴方様があの時……井上殿を崖から突き落とした時、どのように思われたのでしょうか?」
「それは……」
「『これで自分の思う通りになる』でなく、『これで御方が泣かなくて済む』……と思っていたのであれば、某が正しい事になりますな」
 未だに霧のかかる胸中で答える事もままならなかった本音を、広良はいとも容易く掬ってしまった。呆然とする元就の肩を叩きながら、広良は囁いた。
「さぁ、手遅れになる前にお行きなされ。貴方様が正しいと思う道を純粋な心根で行く限りは、某も続きましょう。ただし少しでも迷っておられるようでしたら、その時の説教も手加減致しませぬぞ」
「……分かった。そなたも、早う我の下に来い」
 着崩れた身を正して、元就は頷いた。素直に出てしまった言葉を聞いた時、広良も力強く答える。
「承知致しました……殿も、ご武運を」
「……うむ」
 呼称が変わった事にまたも言葉が出なかった元就だが、口元を引き締めて動揺を収める。
 主の自覚なぞ、本当はまだ良くわからない。しかしそれでも支えてくれる者を報いてやりたい気持ちは、この無様な己にもあるのだ……今はそれを忘れないよう胸に刻みながら、元就は貧弱な身でも見せつけるかの如く、颯爽と戦場へ歩み出した。



 <続>

前項

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