一 「次郎様……貴方様はなにゆえに、日輪に強く惹かれるようになったのでしょう?」 閨で問うた新妻の有様を、多治比小輔次郎元就(たじひしょうじろうもとなり)はその一言で見極めた……だが久(ひさ)という、歳の割にか弱い女は、初夜にそんな事を探る余裕を持つ者ではなかった。潤ませた目を夫から床の間に飾られた輪刀へと向ける。 みすぼらしい多治比猿掛城の主の寝所は広くない。だから油皿の上の、今にも消えそうな僅かな灯りで光源は十分に事足りた。それに照らされ反射した輪刀の鋭い銀光を目の当たりにしたのか、久は耐え切れず目を逸らした。 「地をあまねく照らす日の光は尊きものでございまする。けれど、そのご威光は強すぎれば人の身を焦がしてしまうのです……」 「そなたは吉川の出であったな……日輪と義父の主を重ねておるのか」 言いたい事は察せられたし、それに対して怒りまでは湧かない。代わりに疑問が湧いてきたので、その身をもう一度抱いて答えを待つ。 この女から実家の吉川を取り巻く情勢を聞き出す必要もある……だがそれ以上に、この女以外の妻は見込めぬとも思えたから、気も緩んでしまったのだ。 「……そうではありませぬ。義父だけでなく、西国の将は……一度堕ちた将軍なぞ、上洛の際の傀儡でしかないと見ておりまする」 胸に寄り添う女は、そう言いながらも男に決して媚びようとはしない。義父が絶えずひしめく情勢に身を置いていた事を正しく理解していたからであろう。この婚儀が政略的なものである事も覚悟の上だ。 ……こんな乞食若殿とまで揶揄される己に、何の利用価値があるものか。 その答えを聞きながら、元就は目を細めつつ思案する。宗家の毛利家を支える身であった事から、有力な国人の一人でもある吉川の目に止まったらしい。久はその証とも言える。 「されどお気をつけて……将軍家には、輝かしい将来(さき)を持つ方がおられると。父はよくよく東にも目を向けよと仰せになりました」 「我は、天下になぞ興味はない」 女の余計なお節介なぞ相手にしたくもないが、この久にはかつての養母の姿が垣間見えた。役にも立たぬ念仏を唱えながら、それでも日の光を見つめ続けた彼女の姿は、今でも目に焼き付いている。 虚勢を張るばかりの夫にも感づいてしまったか、久の顔は不安の色も滲ませていた。問題無いとは言い切れない己にこそ怒りを覚えながら、元就はその額に口付ける。 「……日輪はそなたの言う通り、皆をあまねく照らす尊き光だ。しかしその天恵は、この安芸にのみ降り注げば良い」 「次郎様、それは……」 「久よ。そなたはもはや、我が女だ。吉川は諦めよ……いや、我が子が継ぐというのなら、家を残す算段をしても良かろう」 そう言った男の顔を、久はまじまじと見つめた。やはり哀しい色も混ぜていたが、すぐに拭うよう、元就を見据える。 「……構いませぬ。貴方様と、日輪の導く通りになさいませ」 「そなたに言われずとも、そうするつもりだ」 この小さき城の主が偉そうに言う事では無かったが、久は受け入れてくれた――彼女の義父、吉川国経(きっかわくにつね)はあの雲州の狼こと尼子民部小輔経久(あまごみんぶしょうつねひさ)の正室の弟である。中国でも名高い謀将と閨閥(けいばつ)である吉川家を滅ぼそうとするなぞ、狂気の沙汰と見るはずだ。 だが元就には、その算段すらも既に得ていた。だからこそ、この久との仲を見せかけでも良くした方が得策と思えるのだ……。 「……いや、そうではない」 「次郎、様?」 恐らく久も夫の並々ならぬ決意を感じ取って理解しようとしたのだろう。だが元就はそのか弱い身を掻き抱く。 「……そうでは、ないのだ」 それ以上の言葉が思いつかず、元就は繰り返す。 あの陽だまりのように優しい笑顔を思い返して、歯噛みする。それすら、もう遠き昔の残照に過ぎなかった。 『小輔次郎様。お強く、なられましたわね……』 最後に見た彼女の顔には、乞食若殿と馬鹿にされ続けたからこそ変わり果てるしかなかった哀れな青年に対して、悲哀の陰りすら伺えた。 揺れる男の背を、妻はただ慰めるように撫でてくれた。己の無様な本性を見せても動じなかったその様に、やはりこの女を迎えて良かったと心底思いながら、元就は自ら口にした言葉にしばらく慄きが止まらなかった。 ――安芸だけで良い。己が国と、成るならば……。 潮の風薫る、厳島神社。 雲ひとつ無い快晴の空より照らされた陽光によって、海上に建てられた大鳥居の朱が、その蒼と鮮やかに交じり合う。 「まぁまぁ、このように美しい所だなんて!」 「……やはり人の伝聞は当てにならぬな」 思わぬ家内のはしゃぎように驚きながらも、元就はその壮麗な光景に物怖じしてしまった。この厳島が毛利の領外であるがため、夫婦の巡礼者に身をやつして忍び込んだのだが、その甲斐は確かにあったものだ……己の目で見た瀬戸内の海はやはり広く、何より美しい。天にある高天原(たかまがはら)の雲海よりも、これこそ欲してしまいたくなるものだ。 「旦那様、さぁ、早く参りましょう。管弦の祭りは夕刻からと聞いておりますわ!」 「そなたがそのような女であったとは……いや、もう良いわ」 見極めたと思いきや、まだ底が浅かったと見える。女は深淵そのものだ……梅雨の合間の恵みとも言えよう晩夏の陽光にも目眩を起こしそうになったが、笑う久が夫にそっと囁く。 「……次郎様。ここは聖地でありますが、敵地でもありますのよ。厳島の絶景に驚いて舞い上がる巡礼者のふりでもしなければ怪しまれます」 凛としたその表情こそ、城で良く見るものである。あぁ、あれは演技なのか……と、ようやく納得したものの、己はやはり戸惑ったままである。 「……だが我は、上手く笑えぬ質(たち)だ」 「ならば、貴方様は『それ』で結構です。能の面とて、いくつもの種がございますれば」 不器量な男を演じろ、とでも言うのか。つい罵倒したくなった元就だが、ぐっと堪える。確かにここは敵地であり、自らが赴くのは初めてである。何せ戦とて未だに経験した事がないのだ……二十となった男がこの有様では、妻にも示しがつかない。ましてやその妻が剛毅な女であれば尚更だ。 それでもこの潜入を決行したのには理由があった。兄である毛利小輔太郎興元(もうりしょうたろうおきもと)が、酒のせいで身体を壊してしまったと聞いたからだ。主の大内左京大夫義興(おおうちさきょうだいふよしおき)の下命で長らく戦場に出ていた事もあり、心労も祟ったようである。 しかし今の情勢では、またも出陣する事だろう。元就と同じく細面の兄は、それでも安芸の国人衆に呼びかけ、国一揆を起こした張本人である――この国一揆とは、敵対する尼子だけでなく、主の大内にも無闇な出陣をさせぬよう求める、国人達の一揆を指す。しかしここで兄が倒れてしまっては、安芸が尼子と大内の大戦の地にもなりかねないのだ。 そのための平癒祈願である……とはいえ、それだけで初陣も果たしていない元就が厳島詣を決行する許しなぞ、毛利宗家が出してくれるはずもない。 「……左近允(さこんじょう)め。本当に矢を得る算段はついておろうな」 つい罵ってしまったのは、父の弘元の代から仕えている若き重鎮、福原広俊(ふくばらひろとし)の官名である。弘元はこの彼の叔母を妻としているため、興元と元就の兄弟にとっては従兄に当たる。幼少時代からそれぞれ苦労した兄弟の面倒を見てくれた恩こそあるが、人使いが上手いこの彼は、曲がりなりにも毛利家嫡流の元就に対して『ついでに次の戦の矢を商人から得て欲しい』と吐かしたのだ。 しかも路銀だけでなく安全な宿まで手配してくれたせいか、供として着いてきた久の方は夫婦水入らずの観光と見たらしく、旅の間はすこぶる上機嫌の様相。本当に先程のはしゃぎようが演技なのか、元就は再び考えこんでしまいたくなる。 「……久、この厳島には、本当に商人も立ち寄るか?」 「勿論ですとも。宗像(むなかた)の三柱を祀るお社でありますから、平時でも海路の安全祈願に参る商人は多いのです。しかも今宵は管絃の大祭(おおまつり)。多くの者が集まるならば商売の機(とき)と見るでしょう」 それすら見通して、あの意地の悪い従兄は算段したようである。情報は何よりの武器だと思っていたが、得体の知れない生き物と見た方が良さそうだ――元就は大きく頷きながらも、怪しまれない程度に周りを見渡す。 「商人(あきんど)だけならまだ良いが、大祭なれば各地の武将も集まろう……いや、流血を避けられるからこそ、間近で見る良い機会とも言うべきか」 そう考えてみれば、己にとってこれほど良い機会も無いだろう。とはいえ何処まで情報収集が出来るのか、それもまた己次第である。 厳島周辺の情勢は、西の大内と東の尼子の争いで流動的に揺れている。周りの国人衆がどのように加勢するかにも寄るが、揃って静観する有り様……といった所だろう。興元の国一揆もそういう意味では、そのような情勢に一石を投じたものと言っても良い。 しかし毛利とて、大内と尼子から見れば国人衆の一家に過ぎない。現在は興元が大内側に味方しているために大内側と見られるのだろうが、元就から見ればその繋がりは少々危うく思える。何せ現在の当主たる義興は上洛して国許にはおらず、彼の留守居を大内側の国人衆が引き受けているようなものだからだ。 その留守を狙って勢力を拡大させたのが尼子一族である。特に頭の経久は下克上をも成した豪傑であり、孫の詮久(あきひさ)――後に晴久と名乗る若い当主を代わりに据えても、未だに月山富山城にて音頭を取っているらしい。 元就の婚姻すらも、彼にとっては次の大内攻略の布石の一つに過ぎないのだろう……冗談ではない! と声大きくして言いたいものだが、義興から一字貰った兄は『今は様子を見るのが肝心』だと言うばかりだ。義興もまた、尼子の一手を京から静観する構えなのか。 「……大内の馬鹿息子は来るとして、尼子はどうだろうか。詮久の顔は気になるものだが」 「あの方は経久様とは違って、線の細いお方でありますゆえ……とはいえそれも見かけだけとか」 「噂しか聞いておらんのか?」 「私はあくまで吉川の娘ですから」 「ふむ……そなたなれば、もう少し実のあるものを持っておるだろうに」 毛利とも縁を結びたいと思っているのなら、尼子の内部情報も多少は持って嫁がせるだろう……元就は渋い顔をしてみせる。これでは尼子に傾く重り(理由)すら足りない。しかし久はくすりと笑ってみせる。 「次郎様の並々ならぬ野望を、嫁ぐ前から悟られておいでだったのでしょうね」 「余計な事を漏らすと厄介だから、とな。この我の何処を見てそう考えるのだろうな……」 まだ何も成していない元就である。過大評価されても困るものだ……今は潜伏の時期だから、この隙により多くのものをかき集めたいのに、隠されては堪らない。 「何にせよ、まずは矢だ。いっその事、この管絃の大祭に乗じて皆殺せば全て片付くだろうに」 我ながら良い手だ……とも考えてしまったが、実際に神聖な厳島を穢す事は気が進まない。ましてや大祭当日に口にする冗談でもなかったか。 だが久は顔を渋らせながら、わざとらしく嘲るよう返した。 「まぁ物騒なこと……それでは次郎様が血煙を起こしては如何でしょうか。諸葛亮(しょかつりょう)の如く十万の矢が得られるやもしれませぬよ」 「なるほど……鬼吉川の冗談は大したものだが、貧弱な我に投げるとすれば、庶民の石礫(いしつぶて)で事足りるだろうに」 冗談では済まされない事を、さらに上手の冗談で返されては閉口するしかない。だがこの嫁が尼子側の情報を持っていない理由は何となく察せた。 「久よ、そのような物言いはむしろ控えておくのが得策であったな……我が興味持つ女は確かにそなたのような者だが、我は女に骨抜きにされるほど軟ではないぞ」 こんな時にこう言う事すらも控えるべき事だろうが、元就にとって、それは尼子への賛辞でもあった――恐らくあの雲州の狼共は、国人の毛利を攻めるには内部からと見たのだ。 もちろん彼らなら今の毛利を攻める事は容易いだろう。しかしそれを控えたのは、大内にも物を言おうとしている国一揆の代表たる毛利を、大内への返し刃にも利用出来ると考えたからに違いない。 そこでまず、大内との繋がりの薄い弟……恐らくは、戦は知らぬが頭を使う方の若造だと見なしている元就に、それなりの女を送って籠絡させようとしているのだろう。もし仮に失敗したとしても、吉川の娘だからそれほど腹は痛くなかろうし、その対応によって毛利の器を知る事も出来るはずだ。 まずは、敵を知る事から始めるべきだ。これは戦の定石とも言えよう。 「では、私を粛清なさいますか?」 しかし経久の算段は、どうやら予想外な所で崩れようとしているらしい。元就の冷徹な目を、久は真っ向から睨み返したのだ。 こんな剛毅な女は、男の政略の駒としては使えまい。そう、自ら動こうとする女ほど厄介なものはなかろう……そういう女は己の身近にもいたから、良く分かる事だ。 「……そなたは我の本心も知っておる。ここで誅殺された方が幸福である事もな」 「そんな事なぞ、今の私はどうでもよろしいのです……私は、いつもお一人な次郎様のために、話し相手になれればと思っておりますのに」 だが久は、そこで晴れやかな笑みを見せた。元就の無防備な姿(本音)を引き出した所で、斬りかかるが如く全否定する――さすがの元就もこれ以上の言葉が思いつかず、絶句してしまう。 「……次郎様? 照れておりますの?」 「……そうか。そなたにとって、我の思う事は『そんな事』、なのか……」 「『そんな事』? どういう事でしょうか……?」 「良い。そなたは、そのままで構わぬ……話し相手でも何でも、好きにせよ」 ……この彼女は確かにあの吉川の娘なのかもしれない。首を傾げる久の手を引いて、元就はにわかに混み始めた厳島詣の群衆へと紛れる。 親の言う事を良く聞き、夫と対等に接しようとするくらいには聡く、毅(つよ)い。しかも何より素の彼女は、ある意味で最も策謀に耐性のある、無邪気な質だ。 これは手強いものである。しかし逆にそういう女を味方につければ、己ももう少し気を抜けるだろう……と思いつつ。 厳島は古くから神の斎く島とされ、多くの民に守られた地でもある。 かつては西国を平らかにした男が治めた事から、より立派な建物が多く造営されたとも言われるが、この戦国の御世では保存すらも容易ではない。とはいえ、少し前には足利将軍家も参じたという事もあり、細々ながらも未だ権力者に支えられている。 現在の情勢では西から大内が寄進しているため、近辺では大内側がやや有利とも言えようか。だが厳島の神主家を庇護していた安芸の守護たる武田氏が、つい最近になって尼子へ寝返ったようなので、以前混沌としている感は否めない。 そんな時期ですらも、決められた祭事は今年も行うらしい……管絃の大祭はかつての清盛入道から続けられていると言われている。管弦を合奏しながらの船神事のため、瀬戸内の海が穏やかとなる満潮、水無月の十七夜(新暦七月下旬頃)に行うと定められているという。 「次郎様、ご覧あれ……あれこそ求むるものではなくて?」 「真に商人は逞しいものだな……」 厳島の対岸にある地御前(じごぜん)神社では、厳島からの御座船の渡御のための準備が進められていたが、取り囲むように集まっている人々の脇では露店すら出ている。 中には上等な着物を纏う公家らしきものまで物珍しく徘徊している。流血沙汰こそ避けられるだけ良いだろうが、それにしては不用心極まりない。 「しかしかような祭に、武器を売る商人なぞいるものか……」 「次郎様、広俊様がこう仰っておりましたわ。『より人相の悪い従者を連れた商人を探すべし』と」 「……そなたはいつの間に宗家と仲良うなっておるのだ」 広俊はどちらかと言えば宗家の臣下である。尼子側から来た嫁なぞ厄介と見るのが普通だろうに……ぼやきながらも、元就は武器を持つ者を探してみる。 一触即発の瀬戸内を往来する商人もまた、大祭の時期は商売繁盛を願うため一同に集まる。そんな彼らが連れてくる従者だとすれば、人相は悪くなるものだ。 しかし悪ければ買い手も怖がり、避けてしまう事にもなりかねない――とはいえ、この場にそぐわない商品を売る者であれば、逆に従者の人相は選ばなくて済む。むしろ雑多な人混みでも安心して歩けるのなら、顔だけで避けられる方が尚の事楽であろう。 「私は出立前に貴方様をお助けしろと、兄君様より命じられましたから……それとも、私が宗家になびく事を恐れておいでですか?」 「我のものにならぬのなら……手を触れぬ方が良かろうな」 「では、そうさせて頂きましょう」 羨んでいるのかと思われるのも癇に障るので睨もうとしたが、久は唐突に元就の袖を掴むと、いじらしく寄り添ってみせる。 「私の手はこれより、次郎様しか触れませぬ」 「……あまり離れるな。この人混みだとはぐれてしまう」 それほど体格に恵まれていない元就だが、久はさらに小柄である。その腰に腕を回して抱き寄せてやると、久の嬉しそうな顔が視界の端に入ってしまうから、元就は顔を渋くするばかりだ。 人相の悪い輩なぞ、この大祭とてたくさんいるものだ。それが商人の従者であればまだ良いが、声をかける者を間違えれば、この手を血に汚す事態にもなる。 武芸はあまり好まぬ元就であるから、より慎重に生きる事を選んできた。この久とて、鬼吉川の嫁であれど、武芸なぞ手習い程度しか嗜んでいない……どうもあの広俊は予め商人に頼んだ訳でもなさそうだし、さてどうするか。 「……久よ、大祭はいつ頃始まるのだ?」 「いつ、でございますか? 例年通りなれば、申の刻(午後四時)には、厳島より御座船が出御なされるはずだと……」 「まだ時はあるな。少し群衆から外れよう……商船を見た方が早かろうし、荷も誤らずに済む」 「そうでございますね」 商人の使う船がこの近くにあるかどうかは分からないが、彼らの移動手段は限られているはずだ。そこで商売を始めてくれた方が手っ取り早く済むだろう。天頂より落ちつつある日輪を仰ごうと、顔を上げる。 「おっと……」 しかしその日輪が、傘で遮られた……快晴なのに傘を差すとは何事か。睨もうとした元就だったが、我に返れば、その傘の主とどうやらぶつかったようである。傾げようとした腕を捕まれる。 「大丈夫かい、兄さん。目でも眩んだか?」 「……い、いや」 思ったよりも力強い腕の手前、睨む事すら失敗する元就。顔を背けようとしたが、その男はさらに低い声を上げる。 「大丈夫ならいいけどよ、そっちの姉さんは?」 「私は大丈夫です……旦那様、よそ見をするから……」 どうやら二人揃って転がる寸前だったようだ。危ない所だったと、その男は二人の姿勢を両の腕で正してやりながら、快活に笑った。 「まぁまぁ。この祭騒ぎじゃ仕方ないさ。しかもこの快晴だ……目眩起こしても仕方ねぇってな」 そのまま群衆の脇へ外れた男の顔を、元就はようやくまともに見る事が出来た。その顔は、しゃがれた声とは全く不釣り合いなものであった。 「……そなた、何なんだ?」 「何だって、人聞き悪い事言うもんじゃねぇよ……この祭の見物人さ」 そう言った男は呆れて肩をすくめた。とはいえこの彼、どうやら己よりもずっと年下の少年のようである。顔立ちは未だに苦労知らずの幼さを残していたからだ。 しかし体つきは恵まれて大柄、大人と見間違っても仕方ないだろう。ただそれよりも特出していたのは、異様なほど白い肌である。それを隠すように纏う朱の着物にも一片の隙が見当たらない。傘も日除けのつもりで差していたのだろう。 そしてその髪もまた、日の光を知らぬ透き通った白銀の長髪だ。乱雑に束ねているのが惜しいものだ……少年の人となりをひと通り眺めた所で、元就は気がついた。 「……助けてくれた礼は言う。しかし解せぬな」 「人をじろじろを見た上でそれか? もうちょい礼儀ってもんがあるだろ」 元就の無遠慮な視線に、嫌そうに顔をしかめる少年。あまり素性を知られたくないように見えるが、それは己も同じだ。だからこそ遠慮無く言えるのだ。 「そなたの格好は何だ。とても不釣り合いに見える……公家でも無ければ商人でも無かろうな。されど武家にしては肌が白過ぎる」 「……兄さんこそ、巡礼しに来たような格好はしているが、その目は鋭すぎていけねぇな。もう少し隠した方が良さそうだぜ」 少年もまた、元就の態度から何やら察したようである。だが先に折れたのか、また肩を竦めてつぶやく。 「ま、仕方ねぇな。大祭だから無用な喧嘩は無しだ……とは言っても、兄さんは祭の方には興味無さそうな目だったな。何か探してたんか?」 「……なれば聞こう。この辺で商船は見かけなかったか?」 この少年もまた、似たような目の持ち主らしい。だが他人よりは使える者かもしれないと、元就はこの乗りかかった船に、遠慮無く頼る事にした。 「我は商いをする者に興味がある。しかしこの近辺では我の欲しいものが見つからぬのだ」 「船、ねぇ……俺も船で来たんだ。船着場くらいなら案内してやるぜ」 そう言って、少年は『着いてきな』とばかりに歩き出す。それに久は耳元で囁いた。 「次郎様、よろしいのですか?」 「奴の着物を見よ……あれは京の者の趣味だ。されど声はどうも四国の訛りが強い」 傘を差して往来する少年の後を追いながら、元就は久の手を引いて囁く。大柄のせいで、彼の歩幅は人よりも広い。だがその間合いなら、周りの歓声で囁き声も聞けぬはずだ。 「四国で都に通じると言えば……我の記憶では二家おるな。彼奴はそのどちらかに居るだろう。肌は白過ぎるが、振る舞いは紛れも無く武家の者だ」 「まぁ、あれだけでそこまでお見受けいたしましたの……さすがは次郎様ですわ。けれど……」 夫の目に感心した久であるが、顔は急に曇ってしまう。 「あの方に尋ねて、本当によろしいのですか? 欲しいものを知られてしまえば、面倒な事に……」 「四国の彼奴らにとっては対岸の火事よ。問題はあるまい。それよりも四国の奴らも出向くとはな……この大祭、もう少し客が多いかもしれぬ」 「それは厄介でしょうね……」 「我らとて騒がしい事は好まぬ。得る物とてあまり大したものでは無いのなら、潔く撤退するまで。ただ……」 元就は朱塗りの傘を見て、苦くつぶやく。 「……あの傘、黄銅(おうどう・真鍮のこと)を使うておるな。あのように傘に仕立てて担ぐとは、末恐ろしき者よ」 「ほう、分かるんかい」 ようやく人が疎らになった頃、潮の風も強く薫る。海鳥の鳴く中、少年がやっと振り向いた……その顔はその歳相応のいたずらっぽいものだ。 「ま、鉄(くろがね)よりは海風にも錆びつかねぇし、硬さは……ま、そう大したものじゃねぇが、悪くはねぇ。護身には打ってつけて訳だな」 「そなた、鉱石に詳しいのだな」 珍しい才を持つ者だと、元就はつい感心してしまう。四国は離れ小島であるという認識も改めた方が良いらしい……褒められたと見て、少年の顔は得意げなものになる。 「機巧(からくり)をいじるのが趣味なものでね。そのうち、あぁいうのが日ノ本の戦を変えるんだぜ」 「ふむ……異国から種子島なるものが入ってきたと聞くが、そういう類のものか?」 「仕組みとしちゃ似たものだが、アレはもっとデカいものにもなるんだぜ。船として浮かべる事も出来るだろうさ……ただまぁ試してみてぇ所だが、俺は生来、潮風が肌に障っちまってな。なかなか外に出れねぇ質なのさ」 大きい事を言う少年だが、中身はやはり少年のままらしい。苦く笑いながらも、傘で顔を隠すよう覆う。水無月の梅雨晴れの蒸し暑さもあるだろうに、肌をも見せぬ格好はそれゆえの事らしい……まるで姫みたいな厳重さだ。 だがお陰でそのちぐはぐさも理解出来たものだ。障りもあるのにここまで案内してくれた少年に、元就は一つ忠告をする事にした。 「なるほど、それで理解した……だがそれなら、傘よりも面紗の方が風除けに役立つと思うが」 「だろうなぁ……いや、俺もそうしたい所なんだが、父上に姫みたいだと怒られるんでな」 「父か。共に来たのか?」 「あぁ、今頃は……まぁ、この近くにはいるだろうが」 言葉を濁している事は、何処ぞの御曹司とも見える。あまり探ればこちらも危ういと、元就は頭を振る。 「別に探るつもりはない。我も探られる事を良しとせぬ者だ」 「じゃあお互い様だな。で、探してる品は手に入りそうか?」 「そうだな……交渉事は不向きだが、やらねばならんのでな」 「ほう、それなら俺が手伝っても良いぜ? この辺の商船は俺にもちょいと伝(つて)があるんだ」 「旦那様」 笑った少年を制するように、久が元就に声をかける。危ういと見ての声であったらしい……が、元就はそんな久に素早く囁いた。 「構わん。島からなれば、後腐れが無くなるゆえ気も楽だ」 「ですが……」 「まぁ何だっていいがよ、どうせこっちはもう痛い腹探られてる身だからなぁ……『口止め』も考えてるんだぜ、これでもよ」 さすがに聞こえてたか、少年は苦い顔でつぶやく。渋い顔の久と見比べて、元就は即決した。 「なれば、我からもこれから言う事の『口止め』をしてもらいたい。これで相子としたいが、どうだ?」 「痛み分けってか……どうやら探している品は余程物騒らしいな。やっぱり種子島か何かか?」 「その前にそなたが受けるかどうかだ。今の我はそなたの事なぞどうでもいいが、これから先は分からぬぞ」 「おいおい、そっちが脅しかよ……あぁ分かったよ。テメェの名は聞かないでやるから、俺の名も聞くなよ。さっさと品の方の名を言え」 口喧嘩ならば少年の方が上に見えるが、あっさりと降伏してくれた。それを良い事に、元就は満足そうに頷く。 「我はそれほど金子を用意出来ぬが、種子島ではない……単なる矢だが、ある程度の数が入用だ」 「矢、かぁ……とすると、そのうち戦でも起こすって腹か。そりゃ名を言いたくねぇわな」 少年は笑いながらも、やや細い目をとある船へと目を向ける――一際大きな商船のように見える。周りには確かに人相の悪い者達が彷徨いているから、品には期待出来そうだ。 「それならあっちの船だな……あぁ、一応、呼び名くらいはあった方が良いだろ。俺は三郎だ。アンタの方は?」 「……次郎だ」 仮名かどうかは判断つきにくいが、次郎も三郎もこの辺には多く居るものだ……と、咄嗟に言ってしまった己の迂闊さに恥じていると、三郎と名乗った少年が、これまた似合わぬ無骨な手を差し出した。 「交渉は俺がしてやる。アンタはそれを信用してくれれば良いさ」 「それもそなたの働き次第だな」 「偉そうに吐かすなよ。戦に出るような奴でもねぇくせに」 「……そなたこそ、島育ちのくせに女々しき姿ではないか」 だがその手は仕方なく握ってやる。信用は出来ないが、まだ彼も童子である。老獪な輩よりは扱いやすいだろうと見たのだ。 「はっ、言ってろよ……おーい八郎!」 誓い立てるように一度握ってから離すと、少年は商船の方へと駈け出した……それを見て、久はさらに渋い顔を見せる。 「次郎様。先程仰っていた、都に通じる二家のこと……何処と何処を指しているのか、教えて戴けませぬか?」 「安芸でも知られた名であろうが、一条と長曾我部だ。そなたは知っておるのか?」 「……尼子もまた、都に近い所でありますゆえ。けれど私がそうでなくても、次郎様は既に正答を得ておいでですわ」 「どうしてそう言えるのだ?」 「……あのお方、きっと阿呆なのですわ」 そう言って、久は顔を上げる。元就もつられて顔を上げ、あぁと呻いた。あの傘のせいで、視界を遮られていたから、容易に気づけなかったのだ。 「……あんな手、握らねば良かった」 そこにあったのは商船にも負けず劣らずの船――その帆に大きく描かれていたのは、七酢漿草(ななかたばみ)紋。 一条藤の紋を持つ土佐の一条氏は、かつての関白の末裔であるため、今でも都とも繋がりのある、四国で絶大な権力を握る大名家だ。その権力を支えるのが、彼らが独自に行っている異国との対外交易で得る財であるため、安芸の国人らにとっては九州の大友家と同様の『島の殿様』と見なしているのだ。 そしてこの一条家に助けられ、土佐の国人へのし上がったのが七酢漿草紋を掲げる長曾我部家だ。現在の当主である国親は、土佐の守護たる細川京兆家の者に一字貰うだけでなく、一条にも将来を見込まれているらしい。今でこそ一条の勢力拡大にも力を貸しているようだが、その見返りに交易のおこぼれに預かっても不思議では無かろう。 そもそも、あんなか弱い少年風情が商人と仲良くしているなんて、普通では有り得ないものだ……厄介事になってきたと頭を抱えた所で、ふと気づく。 「……だとしたら、奴は何だ? まさか本当に嫡流の子なのか?」 「私が聞いた事によりますれば、嫡子は引きこもりで、周囲からも『姫若子(ひめわこ)』などと噂されておりまする……申し訳有りませぬ、それを早くに思い出しておりますれば」 「……迂闊だったのは我も同じ事。いや、待てよ……」 しかし申し訳無さそうな久の手前で、元就は思いついた。これを知るのは、まだ元就だけである。いずれこの繋がりは良い方へ使える可能性も秘めているのだ。何せ本人はそれなりに才のある者だ……。 「久よ。これは秘しておけ。何食わぬ顔で事を運べば、案外良いかもしれぬぞ」 「どういう事でございましょう?」 「奴の背には四国の商人のみならず、頼りになる大名家までおる。もしもの時の切札に使える。しかも土佐は遠いゆえ、早々に安芸の者らも手出し出来ぬであろう……うむ。少なくとも、今はまだ奴とも友好的だ」 向こうの気はどうなのかは知らないが、使えるものがない今の元就にとっては、是非とも誼みを結んでおきたい相手だ。それを見て、久は苦笑へと顔を変えた。 「そういうお考えでしたら、久が異論を唱える訳には参りませぬ。宗家での口裏合わせの際は、久にもお教えてくださいましね」 「分かった。兄上には我が上手い言い訳を考えておくとしよう……」 「おーい、次郎! ちょっと来いよ!」 そんな夫婦の暗い会話なぞさすがに聞いていなかったか、三郎が満面の笑みで呼びかける――が、二人の澄ました顔と目の前の船を見比べて、困ったように頭を掻いた。 「……兄さん、アンタも策士だな。見過ごそうって事は後で俺を手駒にでも使う気か?」 「ほう、既に頭を垂れる気があるのなら、手始めに矢の代金を半減して貰うとしようか」 「んな事出来るか。俺はここで交渉してやるって言ったが、値切るなんて言った覚えはねぇぜ。それに、アンタの口八丁の方が上手くいきそうだしな」 「引きこもりの割には、そなたもよう口が回るものだ」 「今更煽てたって何にもでねぇぜ……最近この辺で戦を起こそうっていう腹の奴と言えば、やっぱり安芸の国一揆の首領が先に挙がるってもんだろ?」 三郎がずずっと前に出る。その一言につい退いてしまった元就の隙をついて、大柄の少年がその陰を落とす。 「気ぃつけておけよ、兄さん。引きこもりでも外のものを得られる手段は、俺も結構揃えてるからな……さすがにアンタが何しでかそうかまで知らねぇが、まぁそのうち分かるだろ」 「我の素性も分からぬというのに、確証なぞあるものか」 「少なくとも、テメェよりかは確実だぜ?」 にたにたと笑いながら――何処が『姫若子』なのか分からないほどの邪悪さをもって、少年はわざと頭上の日輪を遮るように元就へ傘を傾ける。 「いいか、情報ってのは飛び回る蝶々みたいなもんだ。外に網張っていくのも良いが、自分の庭に花を植えといた方が楽だぜ?」 「……さすがは姫なぞと呼ばれるだけあるな。趣向まで女子の如きものとは」 その陰に我慢できなくなってきた元就であるが、少年の声が囁きになってきた事に疑問が生じる……まるで誰かに聞かれたくないような、そんな様子だ。 「そこまでご立腹なら、さっきの『首領』の縁者というのは図星みてぇだな……まぁそういう事ならちょいと聞けよ。この辺を縄張りしようとしてる武田の事は知ってるだろ? あそこはな、常々その『首領』の地を狙ってる話だ。でな、今の当主の元繁(もとしげ)って奴は最近じゃ調子づいて、厳島の海を荒らす始末。一応後継の俺だけでなく、一条の殿様も放っておけねぇんだよ」 「こちらはそういう輩が蠢く地だ。武田のみならず、誰がそうでも不思議では無かろう」 ――この阿呆、毛利を恫喝して武田を払えと吐かす気か。 年下のくせにと頭に血が昇りかけたが、三郎はまぁまぁとなだめるように、気安く肩を叩いてくる。 「最後まで聞けって。その元繁の事なら安芸の兄さんもよぉく知ってるはずだ。昨年なんか、尼子の娘を娶って大内を裏切ったって言うじゃねぇか……あぁでもそういや、その首領の弟さんも、尼子贔屓の吉川の娘を貰ったっていう話だったな」 「それよりも、そなたは何を言いたいのだ?」 その当人である久もはらはらと緊張しながら見守っているなか、元就は少年を睨みつける。少なくともその武田元繁の影響下にある厳島の地にて、そんな物騒な事を言う少年の真意だけは見定めなければならない――土佐の小豪族の子だろうが、元繁は知勇に優れた武将だと知っているはずだからだ。 「ここだけの話……って訳でもねぇんだが、俺はついこの間元服したばかりでな。今日は一字貰った細川の殿様に挨拶した帰りにここへ来たんだ。ついでみてぇなもんだが、『護衛』は多い方が良いってな」 「『護衛』、だと?」 「そうさ、今宵の大祭にはあの足利の将軍の嫡子まで社参されるのさ……そこまでは知らなかっただろ?」 「……道理で、あんなに堂々と家紋を掲げられる訳だ」 そしてこの引きこもりが外に出ている訳も、だ。これはいよいよ厄介だと、元就はさらに顔を歪める。 将軍の嫡子の護衛であればさすがの武田も口出さぬだろうし、その役目を賜った長曾我部も滅多な事は出来ないはずである。しかしそれは表向きの話だ。 「その護衛の中に、尼子と大内は居るのか?」 近々戦を起こそうとする毛利の動きまで知られたら、双方とも警戒するはずである。本当に厄介な者に声をかけてしまうとは……だがこの少年は、元就の不安げな言動を一笑するに留める。 「別に俺は兄さんを脅してるつもりはねぇんだけどな……尼子も大内も確かに居るが、兄さんがいる事なんて知らねぇっての。むしろ俺に声かけといて正解だったんじゃねぇのかな」 「どういう意味で言うておる?」 「そりゃあ決まってるだろ。ここで矢を買い付けて、アンタ、その『情報』をどうやって隠す気だったんだ?」 「……」 確かに実際の荷は後で運びこむ事となろうが、その際の『記録』は口止め料を商人の懐に入れねば、明日には彼の店に陳列される『商品』になるのだ。 それを知らずにここで買い付けていたら、どうなっていたか……商人の繋がりもまた、寺の坊主共と同じように恐ろしいものである。槍まで持てば武将相手でも十分に戦える集団と成り得るのが、この戦乱の時代である。 「ってな訳だ。ここで俺を口止めしておけば、商人らにも余計な不安を持たずに済むってもんだ。庭に花を植えといた方が良いってのは、そういう事だぜ」 「……なるほどな。そなたの忠言、ここでは素直に聞いておく事としよう」 さすがに苛立ちは禁じ得なかったが、己の庭(勢力圏内)に花を植える(味方を作っておく)という考え方は否定出来ない。一から作る事はやや大変だが、策謀は十分な情報を得てからの方が効果的な刃となるだろう……。 「……とはいえ、武田を払えるかどうかまでは我も確約出来ぬ。それでも良いと言うのか?」 「そりゃ向こうに返り討ちされたら、話はそこで終いだな……けどよ、あの尼子の爺さんが言ってたが、そこで終わりって納得する腹じゃねぇのがアンタの唯一の取り柄なんだろ。なぁ『乞食若殿』さんよ」 笑う少年は再び動揺した元就の肩を叩いて、傘を退いてやる。 「荷は俺宛てにしとく事で話はついたから、密告は心配すんな。あとは値切りでも何でも好きにやってくれ。まぁ、『アイツ』相手にそこまで出来るかはわかんねぇけどよ……」 「待て、貴様……荷を預かる気か」 「きっちり十日後に送り届けてやるよ。その程度なら待てるだろ? じゃ、俺はその辺の算段も父上とやらなきゃなんねぇんでな……あぁ、勿論父上にも口止めするよう頼むさ。それで武田を払う役を押し付けられるなら軽いもんだって言ってくれる御仁だからよ。じゃあな」 「お、おい、待てっ……」 しかし笑ったまま背を向けた少年を追いかけようとした時、久がその腕を掴む。 「お、お待ちをっ……これは、最上の結果ではありませぬか」 「しかし奴め、尼子にまで面識がある口ぶりをしていたのだぞ……それでいいのか」 「貴方様も先程仰っていたではありませぬか。あそこまで話の分かる方なのですよ。味方であれ、敵に回すとどうなるか……」 「……全く、忌々しい奴だ」 朱塗りの傘の少年が堂々と、武装もする七酢漿草の大船へと乗り込んだ。周りの大人達は揃って頭を下げる……本当に蔑称で罵られるほどの嫡子でなければ、あんな態度は取らぬだろう。あの彼こそ、己すらも使って周りを欺くに長けた男だ。 そんな彼ならば、荷も確実に届くだろう……きっちり、十日後にだ。 「……確実に武田を屠らねば、我の評判にも関わるという事か」 そこまで頭を回さねばならぬ事態に陥るとは、いよいよ己の不運が忌まわしいものとなる。そうなると後の値切り交渉すらも億劫になるものだ。 「……次郎様、八つ当たりはいけませぬよ。折角算段を整えてくださったのに、商人の方が反故するやもしれませぬゆえ」 「分かっておる」 声の響きで怒っているだろうとは知りつつも、久はなだめるように囁く。 井の中の蛙、大海を知らず……その言葉が胸中にふと浮き上がった事すらも、今の元就は腹立たしくて仕方なかった。 <続> |
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