三 久との観覧が出来なかった事を惜しいと思えるほど、厳島の管絃祭は壮大に始まった。 かつての清盛入道が始めたとされる祭は、今でこそ聖域の厳島から地御前神社へ、管弦を演奏しながら御座船を渡す神事だ。早速聞こえてきた音色は、さざなみにも負けず、厳かに瀬戸内の海原に響く。 「俺もここ来たのは初めてだぜ……今まではこんなに外に出た機会もねぇからな」 将軍のおわす御座船は、やはり小舟で移動するつもりのようだ。日が傾いても傘を手放せない元親の傍につきながら、元就も目深に被った頭巾を押さえる。風こそは強くないが、小舟の揺れは予想以上だ。 「そんな様で護衛を務められるのか、貴様は……」 「護衛とて形式程度さ。集まる公家共にも派手に見せてぇんだろ。神事なんだから、俺らとて刀抜く訳にはいかねぇよ……その分、気は抜けるがな」 元親はそう言って、己の腰を叩く。先程とは違って飾り太刀も帯びているが、確かに乱戦には向かなそうな造りである。 「神事だというのに……どいつもこいつも、くだらん見栄の張り合いばかりとは」 「社参自体がそんなもんだからな。あの清盛入道とて、半ば己の権力付けのためにやったんだろ……そう言うお前こそ、今宵は商談で来たんじゃねぇか」 呆れて吐き捨てる元就だが、元親の声音はなかなか鋭い。だから顔を背けるのがやっとだ。 「……それも半分だが、もう半分は兄上の平癒祈願だ」 「平癒、か。具合でも悪いのか?」 さすがに土佐にまで兄の病状は伝わっていないようで、元親は首を傾げている。この少年ならば本心から心配もしてくれているのだろう……元就は憂いた顔で頷く。 「兄上は幼くして家を継がれた御方だ。安芸の混沌たる情勢の中、心労の多い事は致し方ない」 「そっか……そりゃ大変だな。早く良くなるといいな」 「……そうだな」 どうやら先程の広良の耳打ちも盗み聞きしていなかったように見える。とはいえ、それが救いとも思えぬのは、兄の病状が絶望的であるからだ。 つぶやきながら、元就は先程渡された紙片を盗み見た――『毛利を頼む』、と。その行動すらも周りに監視されていたのか、兄の筆跡には間違いないが、綴りはやや歪んでいる。明らかに隠れて書いたものだろう。 その言葉が子の後見としてなのか、それとも己の後継としてなのか……どちらにせよ、もはや唯一の家族と思う人である。手遅れになる前に見舞いに行かねばならないと、気持ちばかりが先んじてしまう。 「そろそろ着くぜ。下りる準備しとけよ」 そんな心境の元就の隣で、元親は首周りを擦りながら唸っている。やはり潮風に障ったらしい。肌も赤く腫れているので、想像以上に耐え難いようだ。 「俺はこの様だからあまり近づけねぇ。尼子も他の船にいるみてぇだから、挨拶するなら今だな」 傘からそっと覗きながら、元親は囁いた。その陰から見やれば、一際立派な御座船の右方に四つ目結の帆、その左方には大内菱の帆まである。どのように近づけば良いのか、元就もしばし悩む。 「大内にも顔は見られたくないが……」 「お前の顔、大内は知ってるのか?」 「恐らく大内の方は、左京大夫が御自らついておられる。帰りの供としてはこれほど相応しき方もおられまい……かつて兄上はこの方に付き従うために上洛されたゆえ、顔の似た弟には感づくだろう」 「かもなぁ……でも祭が本格的に始まっちまったら宴も始めるかもしれねぇぜ。そこにご両人が揃ったら厄介だ」 「分かっておる。されど、そなたも一応は挨拶するのだろう。そこに付け込めぬか?」 「……仕方ねぇな。もうちょっとだけ我慢してやるよ」 将軍家の御前では傘もさせない。仕方なく閉じながら、元親は従者に命じて小舟を御座船に近づける。七酢漿草の帆も張っているので、咎められはしないだろう……が、その時だ。 「元親! お前、ここまで来たのか……顔が真っ赤だぞ!」 御座船の方から素っ頓狂な声が聞こえてきた。やや強張った声なのは、元親の腫れた肌のせいだろう。しかし元親の方は別の意味で顔を強張らせている。 「あぁ……まぁ、献上品を届けにな。詮久こそ、もう出張ってきてるんか?」 わざと名を呼んだのは、元就が顔を隠そうとしなかったからか。だが元就の方は、ついまじまじと彼の顔を見てしまった。 派手な赤紫の鎧を纏う、元親と同じくらいの歳の少年武将だ。理知的な雰囲気は漂っているが、どうやら顔だけのようである。口調は元親みたく乱雑だ。 「家臣共が傍にいろってうるせぇんだ……でも将軍の傍には『あの女』もいるからよ」 「『あの女』、ねぇ……そっか。一応お前ん所とも因縁はあるからな」 「因縁も何も、元より節操無しな女は好かねぇ質だ。ん、そいつは誰だ? 道中には居なかった顔だな……」 余程機嫌悪いのか、半ば睨みつける少年。毛利の次男の事には気づいていないと見たようで、元親はもはや隠さずに答えた。 「俺の近習の次郎だ。ついさっき、地御前で合流した所でな」 「近習か。姫若子に相応しく、線の細い奴だな」 「何言ってやがるんだ。お前ん所の鹿之介って奴はまだ幼児じゃねぇか」 「小さい内から躾けておくのがいいのさ。それにアイツはこの程度の船旅でも動じねぇ剛毅な奴だ。何処かの姫若子と違ってな」 「あぁそうかよ。俺だって、この肌が無ければ……」 渋い顔をしながらも、談笑に不自然なものは見当たらない。この尼子出雲守詮久は、あの老獪な経久と比べれば、何の変わりもない歳相応の少年だったようだ。御座船に移る元親に手を貸しながら、詮久は朗らかに笑う。 「奥で肌を冷やしてこいよ。やらないよりはマシだろ」 「とか吐かしてよ、海水しか無かったら、腹いせにお前をこの海のど真ん中に突き落とすぞ」 「誰が因幡の白兎な真似させるか。ここなら飲水用の真水だってちゃんと用意してるさ……ほら、そこのお前も」 「……すまない」 遠慮勝ちな元就を、詮久は引き上げるように御座船へと移す。その腕は整った顔に合わず、意外と逞しい。久から聞いていた通りである。 「気にすんな……じゃあくれぐれも若君に失礼無いようにな。献上なら、あの大内のじじぃに見つからねぇ方が賢明だぞ」 「じじぃなんて言う歳だっけか、あの人……まぁ分かったよ」 問題無いと見てか、詮久はそのまま立ち去ってしまう――なんて不用心な奴だ。元就は呆れて見送ったが、手を振った元親はにやりと顔を楽しげに歪ませる。 「ひやひやしちまったが、まぁ何とかなったな」 「……尼子は奴の代で凋落(ちょうらく)するだろうな」 「そこまで不用心な奴だって? いいじゃねぇか、単純な奴で都合良かったろ」 「違う意味でもな」 あの経久さえいなくなれば、雲州からの攻撃も妙なるものは含まれぬはずである。もう少し時間をかけたとしても、確実に攻略出来るに越した事は無いだろう。 しかし武勇の方で押されてしまった場合の準備はまだ足りない。やはり万全の準備を期してからだ……そう思いながらも、元就は包みを握り直す。 「では、我はこれより謁見に参る。そなたも参るか?」 「いや、俺はこの顔で罷り通る訳にはいかねぇよ。ちょいと顔洗って出直してくるから、後で合流しようぜ」 「うむ……」 ここまで来れば問題あるまい。元親と別れて、元就は忍びこむように御座船を探る。 それほど広い所でも無かった。特に人に会わず、人の気配のする御簾まで辿り着く。 「貴様、何者だ!」 二つ引両の鎧を纏う男達が刀の柄を握って凄んでみせる。それもまた、今の元就にとっては無力に等しいものだ。 「我は毛利治部小輔興元の名代で参った、弟の小輔次郎元就である。将軍家への献上の品をお持ち致した。取り次ぎを頼みたい」 『ほう、治部の弟か……良い、通せ!』 頭を下げて頼めば、朗らかな声が御簾の向こうから飛んできた。これまた気安い奴だと、男達が身を引く様を見て、元就は内心で呆れ返る。 「失礼仕る……」 「よいよい、顔を上げよ。国許にいたそなたを見るのは、初めてなのだからな」 全くとんでもない若君である。促されて顔をあげれば、確かに気安そうな顔の男がそこに座していた。 とはいえ、それもまた顔だけだ。神事のためか、直垂(ひたたれ)姿で来たようだが、見るからに逞しい体格である。歳は三十路の手前とも聞いているが、その温厚の中に威圧すら漂わせる様は、武家の棟梁たる足利家の後継としては真に相応しいものだ。 「あらぁ……毛利の弟が来るなんて、妾は聞いてなくてよ。もしかして忍んできたのかしら?」 そしてもう一人、隣で侍っていたのは豪奢な着物を纏う女だった。妾なのか分からないが、身につけている飾り帯を見て、つい眉を顰めてしまう……四つ目結の紋だ。 「妾は構わないけれど、尼子の若殿や大内の小父様が見たらどう思うかしらねぇ……あら、何その顔は」 「……不躾ですまぬが、そなたはその尼子の者か?」 「本当に不躾な質問ねぇ。まぁ安芸の貴方がそう言うのも無理ないわ。私はその尼子の主流、京極の縁者よ」 「……それは、失礼した」 尼子経久はかつて出雲の守護をしていた宗家の京極に刃向かい、ついに出雲を奪い取った梟雄である――風の噂ではあるが、その京極宗家も間もなく身内同士での騒乱を起こし、家臣筋の浅井家に領地の北近江を乗っ取られたという。これぞ正しく下克上である。 そういえばその京極家は、将軍からは『四職』という警察職を与えられていたらしい。尼子もそうだが、彼女もまたその縁に頼って仕えているのだろう……それにしては贅沢な趣味をしているが。 「あら、もしかして私が京極の姫だと思っているのかしら? ふふ、私はこう名乗っているけれど、出身は浅井なのよ……浅井備前守の名くらいは知っているでしょう? 彼は私の実弟よ」 「魔王の妹を娶った、と……」 魔王こと織田上総介信長の名もまた、西国では良く聞く名である。畿内で勢力を伸ばしつつ、最近では西にも目を向けているようだ……が、彼の侵略はまだ安芸には程遠い話である。 今の彼は、まだ足がかりを築いている最中だ。中でも妹の市姫は現在急成長を遂げている浅井備前守長政に嫁いだから、東国でも広く名が知れ渡るようになったらしい。東か西か、どちらを先に攻めようが、織田はいずれ脅威になる存在だ。 「そうよ。とは言っても、あの子は魔王には勿体無いほど可愛らしい妹なの。妾も妬いちゃうくらいにね……それはともかく、彼の人となりはこれで分かったかしら義輝?」 「あぁ。若輩ながら良く見通す目を持っているようだ。予の心中まで見ようとするとは、油断出来ぬ朋になりそうだ……」 女との会話で様子を探っていたのか、将軍家の若君こと足利義輝は、赤銅の目を興味深そうに光らせる。その指摘通り、観察しようとした元就もその鋭さに息を呑んでしまうほどだ。 「……我は、そこまでの男ではありませぬ」 「いいや、そこまで謙遜する事はない。安芸の国一揆を成した治部もまたそうだが、弟のそなたも才に溢れた男と見える。今は雌伏の時であろうが、機が来るまでの辛抱だ。良く励むと良い」 全く偉そうに言う男である。しかし無力同然の己は、『言われずとも』と言う度胸さえ持ち合わせていない。歯がゆいばかりの心境を隠しながら、元就はひたすら平伏する。 「お言葉、ありがたく頂戴する……」 「うむ。それで、献上の品を携えたと聞いたが、その包みがそうなのか?」 義輝は脇に置かれた包みを見て、首を傾げる。元就はおもむろにその包みを手にとって、中身を広げた。 「ほう……鷲の矢羽根か。良き矢だな」 「これはつい先程、商人より譲り受けた品であれば……本来は将軍家に献じるものにふさわしからぬものと愚考しておりまする」 「ふむ……銭と引き換えたものとて、商人から貰う事に何ら変わらぬはずだ。どうしてそう思う?」 品よりも、その真意が気になるようだ。義輝が興味深そうに元就に問う。 ――なれば良し。元就は朗々と歌うように答えた。 「我がここに馳せ参じました真の目的は、献上にありませぬ。この後起こす戦の布石でございますれば」 「ほう、戦か。何処と干戈を交える気だ?」 「安芸の武田でございます。貴君も存じておりましょうが、我が兄は病に臥せっている。そう長くはもちませぬでしょう……そうなれば、後を継ぐのは嫡子の幸松丸であります」 「ふむ。そのか弱き子の代替わりを狙って、武田が動くと?」 「兄は国一揆の長、か弱き子がまとめられるとは皆が到底思えぬでしょう。むしろ毛利の地を狙って動く者がいるのは必定。特に武田は前々より領外で不穏な動きを見せております」 「確かに武田は、この近辺を騒がしているそうだな。それでそなたは、この予に援軍を頼みたいと申すか?」 「いえ、そのような畏れ多き事は望んでおりませぬ……我が望んでおりますのは、それよりも遥かに畏れ多き事でございます」 意を決して頭を上げれば、義輝の顔色は先程と変わっていた。しかしそれは良い意味で、である。彼は期待に胸を膨らませた童子のような笑みを見せていたのだ。 「ほう、面白き事を考えているようだな。予に構わず申してみよ」 「……此度の戦、我と武田の一騎打ちとして、頂きたく」 ――この彼が日ノ本の戦を調停しようとする試みをしているのは、あの将軍家の内乱にも発展した船岡山の一戦に出陣した兄から聞いていた。親族の争い、そしてそれによる将軍家の凋落を憂いた義輝は、その権力回復のために積極的に干渉しているという。 彼の動きは周りでも注目している。少なくとも、この彼こそ次代の将軍となる御仁だろう……ならばこの彼に近づく事こそ最善である。 「一騎打ち、とな。援軍は無用と申すか?」 「いいえ。無用でなく、拒否……ここでこの毛利が将軍家からの援軍を戴けば、尼子のみならず、大内も不愉快に思う事でありましょう。今、その彼らから目をつけられては、我が毛利の発展の障害にもなる」 「ふむ……むしろ被官如きが将軍家との誼を持つ事こそ、危険だと申すか。しかしそれならば、ここでの謁見は無意味であるように思えるぞ」 義輝は嫌な顔こそしなかったが、解せないと眉を顰める。それもそうだろう……本当に関わりたくなければ、そもそも会わない方が良いのだ。国人の分際で謁見なぞ、それこそ畏れ多きものだ。 だが元就は義輝を睨むように見据えて返した。 「我に彼らを打倒する武力はありませぬ。だからこそ、我は策を練り上げ、略(はかりごと)に尽くす……真に畏れ多き事でありますが、この謁見もまた、我の策の内でありますれば」 「……将軍家の名を持って外敵の干渉を防ぎ、互いに唯一たる敵として戦いに挑むという訳か。敵の数を予め決めておけば、それを知る者の方がより効果的な策略を仕掛ける事は出来ような」 少しの合間の推考で、義輝はそこまで見抜いたようである。それにこそ畏怖を抱きながら、元就は再び平伏する。 「現在、武田は一条のみならず、細川や将軍家の交易も阻害していると聞き及んでおります。となれば、その機に益を得るのは武田を支援する尼子と、その障害に阻まれず交易している大内……彼らの勢力をこれ以上伸ばせば、いずれは将軍家にも災いが降りかかりましょうぞ。正にこの時が、その障害を払う良き機会。存分に油断している者こそ、最上の策の餌食と相成るのです……」 「武勇に優れた武田を、謀略をもって制すか。それはなかなか面白い趣向だが……そなたはこれより、真にただ独りの力を持ってして、全ての災いを払おうとするのか?」 義輝の言葉は鈍く響いた。ここまで言ってしまえば、この戦のみならず、この先の援軍や干渉も期待出来ないだろう……将軍家に『黙って見てろ』と喧嘩を売っているのと同じだからだ。 「……独りではなく、『一つ』。我らが安芸は一つとなりて、我らの平穏をこの手で勝ち取る。これこそ我、そして志半ばに倒れた我が父と兄の悲願でもあります」 ――大内と尼子、そして将軍家の争いの合間に揺れ動いたがゆえに心労で苦しんだ彼らに比べたら、『乞食若殿』と言われど優しき人に育てられた己は、何と平穏な日々を過ごしていた事か。 そう思えば、また彼らと同じ苦境に立とうとする己とて、勇ましく振舞わねばならないのだ。例えそれが虚勢だけの、演技であったとしてもだ。 「故に、『外敵』は我がここで退ける……この矢をもって」 そしてもはやその演技すらも必要はない。立ち上がって、包みの鷲の飾り矢を掴む――その鳥こそ、空の王者。同じく天翔けるものを射るべくして仕立てられた矢だが、元就はそれを射るために使うつもりはなかった。 さすがに女の方は腰を浮かせたが、義輝が手を振って制した。彼はその矢を見つめたまま座している。 「朋よ……たった一本の矢をもって、どう退ける? 未だ将軍でなき予を射るだけでは、戦乱は収まらぬぞ」 「貴君を射るつもりなら、我はもう少し時と場所を選ぶ。何より今宵は厳島の大祭……血を流す事は許されぬ」 「では、そうなる事を避けるために、この日を選んだと?」 「貴君の社参は我の想定の外にあった……策を成すなら、全て我が想定の内で行わねば失敗する。だがこの厳島は神がおわす島。人智を越えた場では、我の想定外の事なぞたくさんあるものだ」 いつだって己はあの小さな城の一室の盤上で、策を練り続けてきた。しかし一歩外に出てしまえば、そこは何もかもが自分の思い通りにならぬ事で満ち溢れている。 だから予め用意した策の変更とて何度もあれば、ふと閃いた天恵の如き策を採用する事もある。きっと、これからもそういう『想定外』はたくさんあるのだ――だとしたら、この日この時にしかない、絶好の機会を怖気づいて逃す訳にはいかない。 「この節目に貴君と相対せた事、我は日頃より拝する日輪にこそ感謝したく思う。我はあの光が陰る事を我慢出来なかったからこそ、この場に居合わせる事が叶ったのだ」 そう、あの人混みで小生意気に傘を差していた奴に会わなければ――しかしそれもまた天恵、己が成した事では無い。己がこの幸運に納得出来なかったのは、正にその一点なのだ。 幸運とて己が手で掴まねばならぬのだ。でなければ、いずれ誰かの幸運にすり替えられる。盤石の地もまた、将軍家の威光で保たれるだけでは、その将軍家が堕ちた時に共倒れになってしまう。 もう二度と、外からの圧力に耐えられずに自滅するような事があってはならない……元就にとって、既にこの場は将軍家に対する宣戦布告という意味を込めた謁見ではなくなっていた。 「しかしこれよりは、その機会を我が手で作る……ゆえにこの矢は、厄払いの破魔矢に非(あら)ず。また我にその必要も無し!」 己の手で全てを払うという誓約(うけい)を込めた、儀式そのものだ……力を込めた手の内で、矢は容易く折れた。 足利の助けだけでなく、天の恵みすらも無用――そう断言した男に、天の加護が降る訳が無かった。折れた矢の柄がかすめて、戦知らずの柔い掌を裂く。握った拳から流れた血は少量であるが、痛みは鈍さも伴っている。 「良くぞ言った、日の朋よ……それこそ真の神算ぞ!」 下賎な血で穢されようとしているのもお構いなく、義輝は手を叩いて賞賛した――ここでこの男を討てば、毛利は周りの国人らを全て敵に回し、確実に滅ぼされるだろう。かと言って、この男から援軍を貸してもらおうとすれば、後に毛利が多大な負荷を背負わされる羽目となる。 だとすれば、最上の一手は『この一戦に置いては他国の干渉を封じてもらう』というものだ。こうすれば最小限の敵と相対す算段をすれば良い。これもまた将軍家に頼らざるを得ないが、彼らとて己の利益を阻害する者を代わりに払ってくれるなら、何より己の兵を割く手間も省けるのだ。他国の干渉を封じる事とて、将軍家なれば書状一つでこなせるのだから安いものである。 「良かろう。予が自ら尽くして、そなたらの一戦を邪魔する全てを封じてやる。確実な勝利を収めて参れ!」 「……御意に」 血まみれとなった矢を握りしめて、元就は頭を下げる……だが本当に得たかったものは、無論こんな約束ではない。元就が去ろうと背を向ければ、義輝は満足そうに微笑んで声をかけた。 「そなたの謀略、予は真に感服した。まだ始まってもおらぬが、そなたならば必ずややり遂げるであろう……治部が去った後は、そなたにこそ安芸を任せたいものだ」 その言葉は、紛れも無く将軍家からの後継の指名と言っても過言では無かろう。だが元就はそれに対して、迂闊に喜ぶ事は出来なかった。 「我が家は二代の短き治世より、家臣の台頭が目覚ましいものでありますれば……そのまとめ上げすら、己が手で成し遂げねばなりませぬ」 次期将軍の言葉で容易くまとまれば、人を治める事に苦労なぞしない。だが元就は直接的な言葉よりも、この彼がより気を惹く言葉を知っていた。 「この戦の勝利もまた同じ……されどそれを成せば、もはや貴君の言葉が無くても、国人らは一つと相成る。その時の貴君が再び同じ言葉を繰り返せるというのなら、我は再び貴君の下へ馳せ参じる事になるやもしれませぬ」 「ふっ……そこまで言う程の器であるのなら、予はここでそなたを討った方が良いかもしれぬな」 「義輝、それでは相手の思う壺よ」 しかし腰を浮かそうとした義輝を制したのは、傍の女だった。 「ここは『その時は予が自ら相手してやろう』、って言う方が将軍の器らしくてよ」 「なるほど、それは迂闊だった……いやはや、マリアよ。予もまだ将軍位へは程遠いものだ」 ――本気で死を覚悟しかけたが、元就はそれを悟られないように睨みつける。女の指摘で大人気ないと恥じたらしい。義輝は再び座すと、元就の険しい双眸をも受け入れるように見つめた。 「と、いう訳だ……そなたは安芸を平らげる事に専念するといい。予も将軍に見合う男となるよう精進するとしよう。そなたの飛躍と再会を、心から願っているぞ」 「……お言葉、ありがたく」 再び頭を下げてから、元就は颯爽と部屋を出た。 御簾の外では、もう日が蒼き海原へ沈みゆきつつある。篝火も掲げられ、いよいよ祭も最高潮へと達してゆく。 美しい管絃の調べも、穏やかな海原の夕べも、何もかも心地が良かった。長年の胸のつかえすらも取れたようにも思える――己は己が手で全ての事を成すのだと、この天下にそう宣言したかったのかもしれない。 「……日輪よ。今は沈み、小夜の海原にてしばし休むといい」 その残照に手向けるよう、元就は二つに折れた矢を掲げた。その際に出来た傷から滴る血が、袖すら濡らしている。 「我が、その眠りを妨げる災厄を払おう……この、毛利の血に誓って」 甲板に滴ろうとした血を舐め取り、その穢れを飲み込む。己の不運の嘆きも、もはや口から出す事は出来ない――既に誓約は済まされてしまったのだから。 「誰かと思ったら、毛利とはな……当主の方じゃねぇのなら、てめぇは弟の多治比か」 鋭い声音が脇から聞こえた。その声に聞き覚えがあったから、元就は呼吸を整える余裕もあった。 赤紫の鎧を纏う若武者、詮久である。やはり長曾我部の突然の謁見を不審だと見ていたのだろう。しかしもう策を成した後であるから、何を言われようともどうにもならない。 「そうだ。我は多治比小輔次郎元就。吉川の久姫の夫である」 「それは良く知ってるさ。爺様がえらく見込んでる男だってのもな……本当に参ったぜ。この俺とした事が、みすみす義輝様の謁見を許すとは……」 「どこぞの阿呆のお陰で、我にとっては有意義な謁見であった。ここで我を誅する事は、次期将軍の御心に背く事に等しい。刀は別の機会に抜け」 「き、貴様っ……」 「それに、あれを見よ……ここで言い合いなぞしておったら、『西国で覇を唱えるにはまだ早い』と、あの方に見透かされるぞ」 「あの方……?」 元就の促しで、詮久は眉を顰めつつもその視線の先を追う。 黄昏の逆光に照らされて、大内菱の船の上に立つ『その姿』は良く見えなかった――だがその下で、『彼』は扇を口元に当て、不敵に笑っていた。 元就達にとっては、将軍よりも先んじて制する強敵となる。しかし彼もまた、神事の穢れを嫌って手出しはしない。この謁見すらも見て見ぬふりをするのだろう……そう考えるだけで、元就は腸が煮えくり返る思いだ。 「……本当に、忌々しき奴よ。彼奴の無闇な出兵のせいで、父上も兄上も……」 「お、おい……兄もって、病に臥せってる噂は……本当なのか?」 若い詮久は、あの元親のように気遣う素振りを見せた。だが元就は頭を振る。 「そんな訳あるものか。縁起でもない事を……」 「いや、でも……それを信じてる武田は戦を起こそうとしてるぞ……おい、まさか。お前、謁見ってこれのために……」 「そうであったとしても、我が知略を持って制する。そなたらは手出しするでないわ……この謁見とて、そなたらの不干渉を請い願うためのものぞ」 「お前、自分の援軍も断る気か? 毛利にそんな力があるものか……死ぬぞ!」 「黙れ。ゆえに、そうならぬ策を講じておるのだ……我が道、妨げるのであれば貴様すら容赦せぬぞ」 敵方でも身を案じた詮久の制止を振りきるよう、元就はその場を立ち去った。 もうここには用が無い……残照すら堕ちた後の、暗き宵の海原で演じたとしても、誰かが見ていないのなら虚勢を張る必要もないのだ。 ……全く、あの男はとんだ阿呆だ。やっぱり詮久に気づかれたらしい。 甲板での言い合いを聞きつけて駆けようとした元親であったが、それすらもままならなかった。己は己で、面倒な者に呼び止められたからだ。 「からす、また面倒事に首を突っ込んでいるの?」 「さやか……お前、ここに配置されていたのか?」 己より年下だが、彼女もまた列記とした傭兵集団、雑賀衆の一人である……が、今回はどちらかと言えば行儀見習いとして首領の雑賀孫市の傍についている。雑賀衆もまた、今回の社参の護衛を頼まれていたのだ。 『さやか』という彼女は、かつて土佐で出会った銃使いである。その時から少し大人びたが、もはや次代の『孫市』だと噂されるほどの実力者だ。姫若子の己よりも、余程誉れ高き戦士となるだろう……その素質は羨ましい限りだ。 「一応ね。でも貴方こそどうしてここに? 潮風に障るからって、地御前の警備をするんじゃなかったの?」 「あぁ、まぁそれもそうだったんだがよ……ちょいと野暮用が出来ちまってな。父上に頼んできちまった」 「何ですって……自分の仕事もしないだなんて、雑賀だったらお仕置きものよ」 「俺は雑賀じゃないからいいんだよ。それにな、ちょっと西国の情勢にも関わるものなんだ……ここで放っておいたら、長曾我部も良くねぇ方に進んじまう。だから手伝ってやったんだよ」 ……盗み聞きした限りだと、あの乞食若殿は将軍の嫡子にまで喧嘩をふっかけたようである。とんでもない事をしでかしたものだと思ってしまったが、殺されなかったという事は、良い方向に行ったのだろう。何にせよ、見かけによらず度胸のある奴だ。 「多治比の元就か……一体どんな奴なんだろうな。小生意気な奴にしか見えねぇのに、尼子のじいさんもどう評価したんだか」 「多治比の元就? 本当に、彼がここに居るの?」 元親のぼやきを聞きつけて、さやかが目を瞬かせる。知っているのかと、元親が首を傾げる。 「お前は知ってるか? 俺も実は、名前くらいしか知らなくてよ……」 「もちろん。当主の兄よりも才覚があるってね……だから混乱を招かないように、隠居した父親が多治比に引っ込んだ際に連れて行ったんだって」 「へぇ、毛利の前代が死んだのも、結構前の話だよな。だとすりゃ、その時から跡目争いになりかけてたって訳か……」 乞食若殿だなんて言われていたのも、多治比の城がそれほど小さいものであったからか。しかしさやかは、さらに深刻な顔をしてみせる。 「でもその後に父も亡くなってね。後見に井上元盛っていう家臣がついたけど、彼は幼い次男から領地内の采配権を取り上げた挙句、城から追い出したのよ……その日食うものにも困るようになったから、彼は乞食若殿なんて呼ばれるようになったの。彼が城に戻ったのは三年後だったかな……その元盛も亡くなった後、井上の親族の手で再び城主になったそうよ」 「……あぁ、アイツが歪んでる理由、分かった気がするぜ」 幼い内にそこまでやられたら、人など容易に信用出来ないだろう……『同じような者』を知っている手前、元親も無理はないと思ってしまう。 「でもその井上っていう奴らの動向、なんかきなくせぇな。身内の横領を反省して、元就を再び城主に据えたのか? そんな態度が良く取れるもんだよな」 「私はどっちかと言ったら元就の方が気になるけどね。それをあの彼が、本当に許しているものかって。一応、まだ彼らは元就の配下にいるのよ」 「こいつは……やべぇ奴に関わっちまったかもな」 その時の恨みを、まだ元就は積み重ねているのだ……そのまま放っておけば、どんな風に爆発するか知れたものではない。 粛清がままならないだけなら、まだ良いだろう。しかしそこまで可能になるほどの権力を持てば――。 「だから慎重に行動しろって言ったのよ、からす。安芸だからまだ良かったかもしれないけど、土佐だったら飛び火くらうのも時間の問題だったんだし」 「分かったから、落ち着けよさやか……ったく」 興奮するさやかを宥めるようつぶやきながら、元親は再び思う。 あの見かけによらぬ彼は、いずれ毛利宗家に帰参する事となる。かつての横領すらも見殺しにした宗家に、だ。 その時、彼はどんな顔をして家臣と向き合うのだろう……そう考えるだけで鳥肌すらもたってしまうのだ。 「……その元盛ってやつ、どんな死に方したんだ?」 「不慮の事故、としか聞いてないけど……誰かがどんな形で関わろうとも、不思議じゃないよね」 さやかもまた、同じ事を考えているようだ。もちろん元親はその恐るべき『仮説』が正解かどうかを、元就に尋ねる気にもなれなかった。 『そういう所』をあの経久に評価されたのかもしれない……と妄想するだけでも肝が冷えるほど、この戦乱へ飛び込む気になれない姫若子だからだ。 「……小輔次郎様は、いよいよ毛利家を潰すおつもりですね?」 「そうだ。今の毛利なぞ白紙にしてくれようぞ」 事の顛末を聞いて皮肉そうに返した広良に、元就も同じ軽口を返す。 厳島の眺めは、夜でも美しいものであった。篝火が焚かれた地御前神社の隅で合奏に聞き入る久の肩をそっと抱く。 「そのうち、ここもそなたがいつでも参じる事の出来る場所にしてくれよう」 「まぁ、そのような事を仰って……」 「そうせねば叶えられぬ事もある……ゆえに男はいつでも大望を抱き、それを叶えられるように事を起こすのだ」 既にこれからの戦の布石を着実に打っている元就にとって、今は一息つける休憩のようなものである。毛利宗家の吉田郡山城へ入れば、息もつまるほどの数ヶ月を過ごさねばならぬのだ。 「天下を取るつもりはないが、その意気でかからねば安芸をも平らげる事は出来ぬだろう。なんであれ、外からの敵を討滅せねば……」 「次郎様……あまり、お気張りなされませぬよう……」 その胸に枝垂れかかるように、久は元就に身を任せる。 「久にも出来る事があれば、何でも仰ってくださいまし。少しでもお手伝いしとうございますので……」 「そなたに出来る事……いや、そなたにしか出来ぬ事で、手一杯となるであろう」 「私にしか、ですか?」 「小輔次郎様。それは今宵の宿でおっしゃるべき事ですな」 聞いていた広良が苦笑する。何だろうと首を傾げた久が、何やら思いついてか顔を真っ赤にさせる。 「……じ、次郎様!」 「口にしなくとも伝わったのであれば、もう黙るが良い」 こんな空気になるから口にしたくなかったのだと唸るも、久は頬を赤く染めて俯いてしまう。さすがの元就とて、こんな所で『早く己の子を孕め』とまでは言えない。 「……何にせよ、出来るだけ早い事に越した事は無い。我もこれよりは雲州と防州の大蛇退治。上手く首を落とせても、帰還出来るかどうかは……」 「次郎様。そこはきちんと『久の下へ蛇の首を持ち帰る』とお約束くださいませ」 弱気な発言だと見なされたか、久の目がつり上がっている。だが出来ない約束をしない質の元就だ。返す言葉も動揺で震えるばかりである。 「そ、そのような、出来ぬ約束を……」 「いいえ。そこまでやろうとする方が、これくらいのお約束が出来なくてどうしまするか」 「……分かった。せめて、我が首だけは無事に……」 「それはなりませんな」 押し切られるように言ってしまったが、その言葉すら信用出来なかった広良も渋い顔で言う。 「貴方様には、せめて長子が元服するまでは、五体満足で生きて貰わなければなりませぬ……いや、欲を言えば次男も、でございますな」 「次男まで、とは……」 そんなに子を作れと言うのか……だが広良の真剣な顔を見て、元就はその真意を悟る。 ――貴方様と同じような思いを子にもさせるな、と。 「……そこまで、子を作る気は無い」 「けれど家族というものは、多い方が楽しいと思いまする。せめて男児が三人いれば、城も賑やかな事になるでしょうね」 久の明るい声につられて、元就は仕方なく夢想してみる――己のように静かな子もいれば、久のように明るい子もいるだろう。もう一人はそんな兄達を慕う子になるやもしれない。 「……その時は、もう少し大きな城に移らねばなるまいな」 しかし男児が三人もいれば、あの城はかなり手狭となるだろう……そんな事を思いながらつぶやけば、久は嬉しそうに大きく頷いた。 「そうですとも。ですから、次郎様にはもっとお働き頂かねばなりませんよ……そしてたまには、肩のお力を抜くのが寛容でございます」 「そう心配せずとも、我は八岐之大蛇(やまたのおろち)みたく、酒など飲まぬ……それより、そなたの餅が食いたい」 「まぁ、私のでございますか。では、郡山にもお届けにあがりましょう」 「でしたら名代も早く決めねばなりませんな。某も早速一働きせねばなりますまい」 広良もようやく明るくなった夫婦を見て、緩い顔となっている……たまにはこういうのも悪くはないのだろうか。そんな顔を一瞥して、元就も肩の力を抜く。 「あっ! やっと見つけたぜ……おい、まだ帰るんじゃねぇよ!」 このまま宿に戻って、久とゆっくり睦み事をするのも良いだろう……そんな欲も出てきた所で、またもあの声。元就は気の抜いた顔のまま、怒鳴る元親の方へと向く。 「何だ、姫若子。謝礼は後程すると言うただろう」 「別にそのために呼んだ訳じゃねぇよ。でも後できっちりふんだくってやるからな、覚悟しとけよ!」 「ほう、某相手にふんだくるとは、精々やってみると良いですぞ」 答えたのは広良である。その邪悪な笑顔に押されて、元親は思わず顔を引き攣らす。 「そ、そんなつもりで、言ったんじゃねぇぞ……と、ともかくだ。てめぇ、その謝礼寄越す前に死ぬんじゃねぇぞ。いいな!」 「貴様に言われずとも、当分死ぬつもりなぞないわ。されど貴様が荷をきちんと寄越してくれねば……」 「そこは安心してくれ。でなければ姫若子の評判がさらに微妙になるだけだからな」 また怒ろうとした元親の背後で、あの八郎が笑いながら近づいてくる。 「荷はきっちり十日後に。四国の方から取り寄せる事になったんだ。武田に邪魔されずに届くだろうよ」 「それは重畳。確実に届けばそれで良い。大蔵、後は任せるぞ」 「承知致しました……ほう、それはもしかして種子島ですか?」 彼も初見だったのか、八郎の種子島に目を瞬かせる。 「これは珍しい……我らもいずれは手にしてみたいものですが」 「そうだな……そろそろ導入を検討せねばなるまい」 畿内の戦は既に種子島が主流となっているだろう。元就も頷くが、八郎の方は苦笑を見せた。 「種子島とて、上手く使わねば宝の持ち腐れになる。そもそも種子島というものは、集団戦よりも別の使い方をする方が良いんだ」 「別の使い方……はて、それは何でしょう?」 「そんな事、考えるまでもなかろう」 首を傾げた広良だったが、元就はすぐに思いついた。 「……されど、ここで声に出しては効果が無くなるであろうな」 「さすがは雲州の狼に見込まれただけはあるな……あぁ、その通りだ」 「お、おい。何だよ一体……」 元親も思いつかなかったようで慌てている。しかし八郎の顔からは笑みも消えていた……彼は元就に対して、もう上手く笑う事が出来なくなったようだ。 「あの鷲の矢の顛末も聞いたよ。これまたとんでもない使い方をしたらしいな」 「そなたの言う通り、武器も使い所というものを図らねばならぬ……残り二本の矢も、既に使い道を考えておる」 「……その顛末も、後で俺に教えてくれるとありがたいものだな」 「そなた……やはり武家の出だな」 言いたい事は言ったとばかりに、そそくさと去ろうとした八郎の背に、元就は声をかける。 「何処の出だ……とはいえ、我の配下に登用したいとも思えぬが」 「悪いが、俺は信用してくれる者に対して心尽くそうとは思うが……貴方のような人にはきっと無理だ」 振り向いたその顔は、実に苦いものであった。だが元就も彼の心中は良く分かる。この彼もまた、己に近しい者なのだ。 「無理にとは言わん。どうせ、そなたもいずれは我の前に立ちはだかる敵となるだろう……その時は精々、我も重装備で臨むとしよう」 「ならば、俺もその時までに、その隙間に銃弾を叩き込めるよう練習しておくさ」 手を振って、今度こそ去る八郎。この男なら彼の事を知っているだろうと、元就は元親を睨む。彼はおどけるように傘を傾ける。 「悪ぃが、そればかりは言えねぇな……俺がアイツに撃たれる羽目になるだろ」 「そうだな。精々普段も頭と胸に気をつけるが良い……種子島の本領は狙撃。油断した大将に銃弾を叩き込む機会は、何も戦場だけではないのだからな」 「……それがさっきの答えってか。あぁ、ちゃんと戸締まりには気をつけるさ」 元親も顔に怯えを見せながら呻く――種子島による暗殺は、恐らく日ノ本では未だに成し遂げた事は無いだろう。一発でも外したら、今度はその轟音で己の命が危うくなるからだ。 しかし、もしそれが成し遂げられたら、今度はそれこそ脅威となる……今までは勇猛な騎馬集団による集団戦が主流であったが、何も戦を制するのは戦場に限らなくなっている。謀略で先んじる事も出来るようになれば、大規模な戦すらも避けられるのだ。 ただ、ある意味でそれは良い傾向なのだろうが、その流血の意味もまた違ったものとなる。より賢き頭を失えば、生き残った者達は烏合の衆となるだろう。まだ、日ノ本がそうなるには早過ぎる……。 「……そなたもいずれは我の敵。それまでにその肌をどうにかして参れ。見苦しい」 「うるせぇな。言われなくなってどうにかするさ。お前こそ、肉弾戦が避けられると思ったら大間違いだからな!」 喧嘩腰ながらも、言い合う元親の顔に悪いものは浮かばなかった。元就もまた、折角巡りあった奇縁だから、相応しい舞台で決着をつけたいとは思っている。だから、こういう言葉が出てしまうのだ。 「ふん……忌々しい奴よ。そのうち四国も安芸の離れ小島にしてくれようぞ」 「おうよ。安芸が四国の一部になっても泣きべそ掻くんじゃねぇぞ!」 そう言って去っていった元親の顔は、もはや『鬼若子』とも称するべき、危うげな強情に染まっていた……何故か恐るべきものだと錯覚してしまいそうである。策なぞ一つも持ちあわせていないだろうに。 だがそれは己も同じだ。四国併合を目的とした布石なぞ、まだ一つたりとも置いていない。いや、しかし……。 「……この『一手』こそが、か」 この出会いこそが安芸のみならず、瀬戸内の海原を制するための一手だ……未熟な己に相応しからぬ大望がこみ上げてきたが、元就はそれをいつものように否定しなかった。 「……腹が減ったな」 「そうですな。その覇道を歩くためにも力をつけねばなりますまい」 あの彼と出会った後の変化は、実にささやかなものであった。己の未熟さを隠すために虚勢を張っても意味がない事に気づいた元就のぼやきに、広良は苦笑混じりでつぶやく。 「けれどお待ちになって。もうすぐ地御前に管絃の御座船が到着するのですよ」 「……では、その後にしよう」 久に手を引かれて、元就も近づいてくる管弦の響きに耳を澄ます。 重厚で力強い、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が制する海原の波音にも負けぬ響き……やがて征く戦場でも、そのような響きを聞く事となるのだろう。 瀬戸内を制するためには、やはり海に面した拠点と船が必要だ。今はまだ夢想にある絵空事であるが、やらねば何も成せない。それが例え、己が血に濡れる事になってもだ。 誓約を胸に秘めつつ拳を作れば、裂かれてしまった掌の傷が疼く。しかし堪え忍ぶ事にはもう慣れている。元就はそのまま、いつものやや冷たい顔を貫いて、大祭の群衆へと紛れていった。 <了> ▼後書き ようやく書けた瀬戸内話でした。しかしこれを基に伊達家みたく大風呂敷広げそうな予感が……。 とはいえ3からの西国勢+捏造武将で盛り上がりそうですね。それはそれで楽しみであります。 どこまでやるかはさすがに分からないのですが、とりあえず多治比時代のエピソードはあと2つほど書く予定です。 そこからはもう未知数ですね。うーん、でも書きたい。 2014/09/15 |
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